第八十四話
火山の庭へ向かう船旅は短かった。
海鳴りの庭の守護鯨が案内してくれたからだ。
普通の航路ではない。
海底に流れる古い道。
世界樹の根に沿って続く秘密の航路。
そのおかげで。
数週間かかる距離を。
わずか二日で越えた。
そして三日目の朝。
水平線の向こうに見えてきた。
赤い空。
黒い雲。
立ち昇る煙。
火山の庭だった。
「暑い……」
レインが額の汗を拭う。
まだ遠い。
それなのに暑い。
海風まで熱を帯びている。
近づくにつれ。
景色はさらに変わった。
海は黒い。
砂浜も黒い。
空から灰が降っている。
雪みたいに。
静かに。
絶え間なく。
そして。
中央にそびえる巨大火山。
その姿は神々しかった。
だが同時に。
どこか苦しそうだった。
山肌には無数の亀裂。
赤い光。
漏れ出す溶岩。
まるで熱病に苦しむ患者のようだった。
「熱ある」
シオンがぽつりと言う。
「山に?」
ナギ。
「うん」
即答。
もう誰も突っ込まなかった。
火山も患者である。
それがこの旅の常識だった。
やがて船は港へ着く。
だが。
様子がおかしい。
人が少ない。
市場も閉まっている。
漁船も動いていない。
活気がない。
不気味なほど。
静かだった。
港へ降りた瞬間。
誰かが叫んだ。
「外から来たぞ!」
ざわり。
人々が振り向く。
その目には。
歓迎ではなく。
恐怖があった。
マリナが眉をひそめる。
「変ですね」
すると。
一人の老人が近付いてくる。
深い皺。
煤で黒くなった服。
疲れ切った顔。
彼はシオンたちを見る。
そして。
小さく頭を下げた。
「頼む」
静寂。
「アカネ様を助けてくれ」
いきなりだった。
だが。
その言葉には切実さがあった。
ナギが聞く。
「何があった?」
老人は震える声で答える。
「アカネ様は悪くない」
「全部あいつらのせいだ」
「あいつら?」
老人の顔に恐怖が浮かぶ。
そして。
火山の方を見る。
「灰の司祭たち」
静寂。
初めて聞く名。
だが。
ノアの顔色が変わった。
「いる」
小さな声。
「ヴェルグの仲間」
空気が張り詰める。
老人は続ける。
「三年前だ」
「突然現れた」
「火山は怒っている」
「神樹は人を見捨てた」
「そう言い始めた」
典型的だった。
不安な時代。
苦しい状況。
そこへ現れる救いを語る者。
最初は誰も信じなかった。
だが。
火山の噴火は増えた。
地震も増えた。
神樹は弱り始めた。
そして。
人々の心も弱っていった。
老人は唇を震わせる。
「気付いた時には遅かった」
「街の半分が従っていた」
「今じゃアカネ様まで……」
そこで言葉が止まる。
言いたくないのだ。
信じたくないのだ。
その時。
港の向こうで鐘が鳴った。
ゴォォォン……
重い音。
嫌な音。
老人の顔が青ざめる。
周囲の人々も。
子どもたちも。
怯え始める。
「始まる……」
老人が呟く。
「何が?」
答えはすぐに分かった。
火山の方角。
巨大な広場。
そこへ向かう人々の列。
皆。
無表情だった。
まるで操られるように。
同じ方向へ歩いている。
そして。
その列の先。
赤い髪の少女が立っていた。
アカネ。
火山の庭の守人。
しかし。
その首には黒い首輪。
瞳には光がない。
そして彼女の背後には。
空を貫く三本の黒い柱。
まるで。
彼女自身が柱を支えているかのように。




