第七十九話
「ノア」
その名前が響いた瞬間。
白い世界に風が吹いた。
優しい風だった。
千年間。
一度も吹かなかった風。
子ども――いや。
ノアは呆然としていた。
「ぼく……?」
震える声。
シオンは頷く。
「うん」
「ノア」
その一言だけ。
けれど。
それだけで十分だった。
名前とは。
誰かが呼んでくれるものだから。
誰かが覚えてくれるものだから。
ノアの瞳から涙が溢れる。
ぽろぽろ。
ぽろぽろ。
止まらない。
「ぼく……」
「いてもいいの?」
静寂。
その問いに。
ルナが泣いた。
アルヴァも目を閉じる。
あまりにも悲しい問いだった。
世界を滅ぼしかねない存在が。
願ったこと。
それは。
許されること。
ただそれだけ。
シオンは迷わない。
「いい」
即答だった。
「でも」
ノアが不安そうに顔を上げる。
シオンは少しだけ考える。
そして。
「悪いことはだめ」
静寂。
ナギが吹き出す。
ジークも肩を震わせる。
壮大な話なのに。
なぜか説教みたいだった。
だが。
ノアは真剣に頷いた。
「うん」
「がんばる」
その時だった。
世界が揺れる。
ドォォォォン!!
巨大な衝撃。
空間に亀裂が走る。
星々が震える。
ルナの顔色が変わった。
「外!」
静寂。
「封印が攻撃されてる!」
全員が振り向く。
白い世界の空。
そこに。
巨大な黒い穴が開いていた。
海底の門。
現実世界の封印。
誰かが外から破壊している。
エルドだ。
封門教団だ。
アルヴァも立ち上がる。
赤い瞳が鋭くなる。
『間に合わぬ』
その声には焦りがあった。
『この世界は崩れる』
『ノアも消える』
ノアが震える。
せっかく。
ようやく。
名前をもらったのに。
その時。
シオンが聞いた。
「治せる?」
アルヴァが固まる。
またそれだった。
『理論上は可能だ』
「やろう」
即答。
アルヴァは笑ってしまう。
千年ぶりだった。
心から笑ったのは。
『本当に変わった奴だ』
その時。
白い世界の奥。
さらに奥。
誰も気付かなかった場所。
巨大な光が現れる。
暖かい光。
懐かしい光。
そして。
一つの声が響いた。
『ようやく見つけた』
静寂。
ルナが凍り付く。
アルヴァも。
ノアも。
その声を知っていた。
知っているはずがないのに。
魂が覚えていた。
世界そのものが覚えていた。
光の中から現れる。
巨大な樹。
天も地も覆うほど巨大な樹。
七つの神樹の原型。
世界が分かれる前の姿。
最初の神樹。
いや。
世界樹そのもの。
その姿を見て。
アルヴァは膝をついた。
ルナも膝をつく。
誰も逆らえない。
圧倒的な存在。
そして。
世界樹は優しく言った。
『ごめんね』
静寂。
その言葉は。
アルヴァへ。
ノアへ。
そして。
千年間孤独だった全ての者へ向けられていた。
世界樹は泣いていた。
ずっと。
謝りたかったのだ。
置き去りにしてしまった子どもたちへ。




