第七十八話
「ずっと」
「ひとりだった」
泣き声が響く。
白い世界の奥。
黒い霧の中心。
膝を抱えた子ども。
小さな身体。
震える肩。
その姿はあまりにも弱々しかった。
世界を滅ぼしかねない存在。
そんな言葉とは結びつかないほどに。
ただ。
寂しそうだった。
シオンはゆっくり歩く。
ナギが呼び止めようとする。
だが。
やめた。
止めても行く。
分かっていた。
アルヴァも見つめている。
赤い瞳が揺れている。
『千年……』
かすれた声。
『ずっと近くにいたのか』
子どもは顔を上げる。
涙で濡れた瞳。
真っ黒な瞳。
けれど。
恐ろしさはなかった。
悲しみしかなかった。
「帰りたかった」
ぽつり。
「みんなが怖かった」
「だから隠れた」
「でも見つけてくれなかった」
静寂。
誰も言葉を挟めない。
子どもは続ける。
「最初は待ってた」
「ずっと」
「ずっと」
「待ってた」
その言葉に。
ルナが唇を噛む。
胸が痛い。
なぜなら。
それは自分と同じだったから。
千年。
待ち続けた。
誰かが来るのを。
誰かが終わらせてくれるのを。
誰かが一緒にいてくれるのを。
その時。
シオンは子どもの前に座った。
目線を合わせる。
怒らない。
責めない。
ただ。
聞く。
「名前ある?」
静寂。
子どもが固まる。
何百年。
いや。
何千年。
誰にも聞かれなかった問い。
「……ない」
小さな返事。
「虚無だから」
「みんなそう呼ぶ」
シオンは少し考える。
そして首を横に振る。
「それは名前じゃない」
静寂。
子どもの瞳が揺れる。
「君の名前じゃない」
誰かが付けた呼び名。
恐れた人々が付けた呼び名。
それは本当の名前じゃない。
その瞬間。
アルヴァが顔を覆う。
気付いてしまった。
自分も呼んでいなかった。
千年。
ずっと一緒にいたのに。
「虚無」
そう呼ぶだけだった。
その奥にいる存在を。
見ようとしなかった。
子どもは震える声で聞く。
「じゃあ……」
「ぼくは誰?」
静寂。
世界が息を止める。
その問いは。
とても重かった。
自分は誰なのか。
存在する意味は何なのか。
長い孤独の果てに残った問い。
シオンは答えない。
代わりに聞く。
「何が好き?」
「え?」
また予想外だった。
「好きなもの」
「楽しいこと」
「嬉しいこと」
子どもは困った顔になる。
考える。
一生懸命。
そして。
小さく呟く。
「……星」
静寂。
「星を見るの好きだった」
「きれいだから」
その瞬間。
白い世界のどこかで光が灯る。
小さな星。
一つ。
また一つ。
また一つ。
無数の星が現れる。
まるで忘れていた記憶が戻るように。
子どもは目を見開く。
「思い出した……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「昔」
「空が好きだった」
「風が好きだった」
「みんなと笑うのが好きだった」
黒い霧が少しずつ薄くなる。
アルヴァが震えている。
ルナも涙を流している。
それは怪物ではなかった。
最初から。
怪物ではなかった。
傷ついた子どもだった。
世界に置き去りにされた。
帰れなくなった子どもだった。
その時。
シオンは微笑んだ。
「じゃあ名前つけよう」
子どもが顔を上げる。
真っ黒な瞳。
そこに初めて光が宿る。
「名前……」
誰かに呼ばれる。
誰かに認められる。
その意味を。
ずっと忘れていた。
シオンは空を見上げる。
星が広がっている。
子どもの好きだった景色。
そして。
静かに口を開いた。
「ノア」
静寂。
アルヴァが目を見開く。
ルナも。
ナギたちも。
その名前を知っていた。
翠風の庭で救われた少年。
孤独の中にいた少年。
帰る場所を取り戻した少年。
シオンは続ける。
「もう一回始めよう」
「今度は一人じゃない」
その言葉と共に。
子どもの周囲の黒い霧が大きく揺れた。
まるで長い夜が終わりを迎えるように。




