第七十七話
『異物』
その声が響いた瞬間。
白い世界が歪む。
ゴゴゴゴゴ……
何もない空間に亀裂が走る。
遠く。
近く。
あらゆる場所で。
白かった世界が黒く染まり始める。
ルナの顔色が変わった。
「そんな……」
千年間。
一度もなかった。
虚無が自ら反応することなど。
アルヴァも赤い瞳を見開いている。
『我以外を認識しただと……』
その声には驚愕があった。
虚無は意思を持たない。
ただ喰らうだけ。
ただ侵食するだけ。
そう思われていた。
しかし違った。
今。
確かに見ている。
考えている。
そして。
シオンを警戒している。
『異物』
再び声が響く。
今度は近い。
シオンの目の前。
黒い霧が集まる。
集まり。
固まり。
人の形になる。
黒い影。
顔のない人影。
だが。
どこか不自然だった。
まるで。
誰かを真似している。
『お前は違う』
『循環の外にいる』
静寂。
ナギたちは意味が分からない。
しかし。
アルヴァの表情だけが変わった。
何かを知っている顔。
その時。
虚無がシオンへ手を伸ばす。
触れようとした。
だが。
パシッ。
シオンがその手を掴む。
静寂。
虚無が止まる。
全員も止まる。
「冷たい」
シオンが言った。
「すごく」
虚無が固まる。
完全に。
予想外だった。
千年。
誰も触れなかった。
触れられなかった。
恐れたから。
逃げたから。
なのに。
この薬師は触った。
しかも。
感想が「冷たい」。
ナギが遠い目をしている。
もう驚かない。
本当に。
もう驚かない。
その時。
シオンは虚無を見つめる。
そして。
ぽつりと言った。
「君も苦しい?」
静寂。
世界が止まる。
アルヴァが固まる。
ルナも固まる。
虚無そのものが固まる。
誰も考えたことがなかった。
虚無が苦しむ。
そんな発想。
存在しなかった。
『我が……?』
虚無が初めて迷う。
その声は。
先ほどより弱かった。
『我は虚無』
『喰らうもの』
『終わらせるもの』
まるで。
教えられた言葉を繰り返すように。
シオンは首を横に振る。
「違う」
『何?』
「苦しそう」
静寂。
その瞬間。
シオンの胸元の種が輝く。
翠風の庭。
海鳴りの庭。
二つの神樹の力。
その光が虚無を照らす。
そして。
見えた。
本当の姿が。
黒い霧の奥。
さらに奥。
もっと深い場所。
そこにいた。
小さな子ども。
膝を抱えて座っている。
真っ黒な世界の中で。
一人だけ。
泣いている。
「……あ」
ミルが声を漏らす。
ユグも見えた。
ルナも。
アルヴァも。
全員が見てしまった。
虚無の中心。
その核。
そこにいたのは。
怪物ではなかった。
泣いている子どもだった。
その瞬間。
アルヴァが膝をつく。
震えている。
赤い瞳から涙が零れた。
『そうか……』
かすれた声。
『お前だったのか』
静寂。
ルナが振り向く。
アルヴァは泣いていた。
千年間。
初めて。
『ずっと一緒にいたのに』
『気付けなかった』
その言葉と共に。
虚無の世界が大きく揺れる。
そして。
黒い霧の奥から。
子どもの泣き声が聞こえた。
「さみしい」
小さな声。
か細い声。
世界を震わせるほど弱い声。
「ずっと」
「ずっと」
「ひとりだった」
その一言に。
シオンは静かに歩き出した。
泣いている子どもの元へ。




