第七十四話
赤い瞳が笑った。
ほんのわずかに。
だが確かに。
ルナは息を呑む。
千年。
千年間。
あの存在が笑ったことなどなかった。
怒り。
憎しみ。
悲しみ。
絶望。
それしか見たことがない。
なのに今。
笑った。
『愚かな薬師だ』
門の向こうから声が響く。
しかし。
どこか柔らかかった。
『我を救うだと?』
『我が何者かも知らぬのに』
シオンは首を傾げる。
「知らない」
『ならばなぜだ』
「苦しそうだから」
静寂。
エルドも。
ルナも。
誰も言葉を失う。
理由はそれだけだった。
世界を滅ぼすかもしれない存在。
そんなことは関係ない。
苦しんでいるなら助ける。
ただそれだけ。
その時。
赤い瞳が静かに閉じる。
まるで。
遠い昔を思い出すように。
そして。
語り始めた。
『我の名はアルヴァ』
静寂。
アルヴァ
その名前が響いた瞬間。
海底全体が震えた。
ルナの顔が青ざめる。
「名前を……」
彼は自ら名乗った。
それ自体が異常だった。
『かつて世界樹の守護者だった』
誰も息をしない。
守護者。
怪物ではない。
元々は。
世界を守る側だった。
『世界の外から来た虚無と戦った』
『最後まで』
『誰よりも』
その声に嘘はなかった。
長い。
長い戦いだったのだろう。
『だが我は侵された』
静寂。
『虚無を封じるため』
『我はその器になった』
空気が重くなる。
シオンは静かに聞いていた。
『世界樹は我を救えなかった』
『だから封じた』
海が揺れる。
神樹が悲しそうに枝を震わせる。
アルヴァの声には恨みがなかった。
それが余計につらかった。
『必要だったのだ』
『理解している』
『だが』
初めて。
声が揺れる。
『苦しかった』
静寂。
千年分の言葉だった。
誰にも言えなかった。
誰にも聞いてもらえなかった。
苦しかった。
ただその一言。
ルナが涙を流している。
彼女は知っていた。
ずっと。
知っていた。
だから門を守っていた。
だから諦められなかった。
その時。
エルドが前へ出る。
「聞きましたか」
静かな声。
「彼は犠牲者です」
「だから私は封印を解く」
「彼を自由にする」
信念だった。
歪んでいる。
だが偽物ではない。
本気で救いたいと思っている。
だから厄介だった。
その時。
シオンが聞く。
「自由になったら治る?」
静寂。
エルドが固まる。
アルヴァも黙る。
誰も考えていなかった。
封印を解くことばかり考えていた。
その先を。
「虚無なくなる?」
「……」
「苦しくなくなる?」
エルドの顔が曇る。
答えられない。
分からないからだ。
封印を解けば救える。
そう信じてきた。
だが。
本当にそうなのか。
その時。
シオンは門へ近付く。
ルナが慌てる。
「危ない!」
だが。
シオンは門に手を当てた。
光が広がる。
種が輝く。
海の神樹も。
翠風の庭の葉も。
共鳴する。
そして。
シオンは診断を下した。
「虚無が残ってる」
静寂。
「だから苦しい」
アルヴァの赤い瞳が見開かれる。
初めてだった。
千年の間。
誰一人。
自分の状態を正確に言い当てた者はいなかった。
怪物。
災厄。
封印。
皆そう呼んだ。
だが。
この薬師だけは違う。
病名を探している。
治療法を探している。
その時。
門に走る亀裂が光った。
そして。
世界のどこかから。
もう一本。
黒い柱が立ち上る。
三本目。
遠く離れた場所。
海ではない。
空でもない。
神樹が見せた五つの庭の一つ。
おそらく。
火山の庭。
誰かが同時に動いている。
封印だけではない。
七つの庭そのものを狙って。
そして。
海底の暗闇の中。
エルドが小さく笑った。
「やはり間に合いませんよ」
だが。
その言葉とは裏腹に。
彼の瞳には初めて焦りが浮かんでいた。
なぜなら。
千年間動かなかった運命が。
シオンという薬師によって。
少しずつ変わり始めていたからだった。




