第六十二話
「名前ある?」
黒衣の男は動きを止めた。
黒い蔦も。
渦巻く霧も。
一瞬だけ静止する。
まるで時間そのものが止まったようだった。
「名前……?」
男は呟く。
その言葉が分からないように。
遠い昔の言葉を聞いたように。
「名前だよ」
シオンは頷く。
「呼ばれてた名前」
静寂。
男は額を押さえる。
頭の奥が痛む。
思い出そうとすると。
何かが邪魔をする。
百年間積み重なった黒い感情。
憎しみ。
怒り。
嫉妬。
それらが記憶を覆っている。
「知らない……」
男は苦しそうだった。
「忘れた」
シオンは少し考える。
そして。
「寂しいね」
静寂。
男が顔を上げる。
その言葉は予想外だった。
責められると思った。
怒られると思った。
倒されると思った。
なのに。
寂しいね。
それだけだった。
「……」
男は何も言えない。
その時。
アリアの幻が静かに男を見る。
優しい目だった。
かつて患者を見る時のような。
薬師の目。
「あなたも苦しかったのね」
男の身体が震える。
「違う!」
叫ぶ。
黒い霧が爆発する。
「私は苦しくない!」
「私は怒っているだけだ!」
「私は憎んでいるだけだ!」
「私は――」
言葉が止まる。
本当にそうだろうか。
百年。
たった一人で。
神樹を蝕み。
森を見続け。
誰にも気付かれず。
誰にも名前を呼ばれず。
それは。
本当に怒りだけだったのだろうか。
「嘘」
シオンが言う。
男が睨む。
だが。
シオンは怖がらない。
「苦しい顔してる」
静寂。
男の瞳が揺れる。
誰も見なかった。
誰も言わなかった。
でも。
薬師は見ていた。
病を。
傷を。
心の奥を。
その時だった。
神樹の種がさらに輝く。
アリアの幻が男へ歩み寄る。
そして。
小さく呟いた。
「ノア」
世界が止まる。
男が凍りつく。
「……え」
アリアは微笑んだ。
「思い出した」
ノア。
それが男の名前だった。
百年前。
翠風の庭で暮らしていた少年。
神樹を守る樹人族の子。
精霊王とも。
エアリアとも。
アリアとも。
友達だった。
静寂。
エアリアが息を呑む。
記録で見たことがある。
消えた少年。
百年前に行方不明になったはずの。
「ノア……?」
男の身体が震える。
記憶が戻る。
少しずつ。
少しずつ。
あの日のことが。
アリアと笑った日々が。
神樹の下で遊んだ時間が。
全部。
戻ってくる。
そして。
思い出してしまう。
なぜ自分が神樹を憎んだのか。
なぜ黒い蔦になったのか。
なぜ百年間ここにいたのか。
ノアの頬を涙が伝う。
「僕も……」
震える声。
「待ってたんだ」
静寂。
精霊王が顔を上げる。
アリアも微笑む。
ノアは泣いていた。
「僕も帰ってきてほしかった」
「ずっと」
「ずっと」
アリアに。
帰ってきてほしかった。
だが。
彼は待てなかった。
悲しみに飲まれた。
怒りに飲まれた。
そして。
いつしか自分自身を失った。
神樹を蝕む病になってしまった。
シオンは静かに頷く。
ようやく診断が終わった。
神樹の病。
精霊王の病。
そして。
ノアの病。
全部同じだった。
喪失。
置いていかれた悲しみ。
届かなかった想い。
それが百年かけて大きくなったもの。
その時。
アリアの幻が薄くなり始める。
別れの時間が近づいていた。
そして彼女は最後にシオンを見る。
まるで何かを託すように。
「お願い」
その言葉と共に。
神樹の種が眩い光を放った。
翠風の庭全体を包み込むほどの光を。




