第百四十二話
朝。
町は、白くなっていた。
ほんの少しだけ。
屋根の上。
木の枝。
石畳の隅。
昨夜降った雪が、薄く残っている。
町の人々は、それだけで嬉しそうだった。
子どもたちは雪を集め、小さな雪玉を作っている。
老人たちは空を見上げ、何度も頷いていた。
「ようやく冬が来た。」
「本当に……。」
そんな声が、あちらこちらから聞こえる。
シオンたちは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
ナギが笑う。
「一粒の雪で、こんなに喜ぶんだな。」
アカネも微笑んだ。
「待っていた時間が長かったから。」
ガルドは腕を組んで空を見る。
「だが、これで終わりじゃない。」
シオンは頷いた。
「うん。」
季節時計は、まだ完全には動いていない。
昨夜の雪は、ほんの一瞬だけ流れが戻ったに過ぎない。
それでも。
町の人々にとっては、それだけで十分だった。
◇
出発の前。
昨日の老人が四人を訪ねてきた。
手には、小さな木箱を抱えている。
「これを持っていってくれ。」
蓋を開ける。
中には、古い金属片が入っていた。
丸い形。
中央に、見覚えのある紋章。
炎。
風。
水。
そして――
若葉。
四つの紋様が、一つの円の中に刻まれている。
「昔から、この町で守ってきたものだ。」
老人は言った。
「何のためのものかは、もう誰も知らん。」
「ただ、北へ向かう者には渡せ、と。」
シオンは金属片を手に取った。
冷たい。
だが、指先が触れた瞬間。
薬箱が反応した。
カタン。
蓋が開く。
診療記録の頁に、新しい文字が浮かぶ。
鍵を確認。
シオンの目が細くなる。
「鍵……?」
金属片の中央に、小さな穴が開いている。
何かを差し込むための穴。
けれど、それが何の鍵なのかは分からない。
老人は首を横に振った。
「わしにも分からん。」
「ただ、これを持って北へ行けばいい。」
シオンは大切に木箱へ戻した。
「ありがとうございます。」
◇
町を出る。
街道には、薄い雪が残っていた。
昨日まで色を失っていた草原にも、白が混じっている。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、季節が動き始めていた。
シオンは歩きながら、何度も北の山を見た。
金色の光は見えない。
昨夜あれほど強く輝いていたのに。
今朝は雲一つない空だけが広がっている。
ナギが隣へ来た。
「消えたな。」
「うん。」
「だったら、少し安心か?」
シオンは首を振る。
「……逆。」
「どうして?」
「隠れた。」
ナギは黙った。
シオンには分かっていた。
あの光は自然のものではない。
季節時計を止めていた何か。
炎神樹や風神樹を弱らせていたものと、同じなのかもしれない。
◇
昼を過ぎると、雪が増え始めた。
山道へ入る。
木々の枝に白い雪が積もっていく。
足元が滑る。
ガルドが先頭に立ち、道を確認する。
「この先、古い山道がある。」
「昔は交易路だったらしい。」
「今は?」
ナギが聞く。
「ほとんど使われてない。」
「じゃあ、どうしてそんな道を?」
ガルドは北を見る。
「老人が言ってただろ。」
「北へ行けって。」
四人は歩き続けた。
◇
夕方。
雪が強くなった。
視界が白くなる。
アカネがマントの襟を押さえる。
「このままじゃ夜までに山を越えられないよ。」
シオンも頷く。
「小屋。」
「探そう。」
ナギとガルドが先へ進む。
しばらくして。
「あった!」
ナギの声が響いた。
道の脇に、古い石造りの小屋が建っていた。
扉を開ける。
中は空っぽだった。
けれど、屋根は壊れていない。
薪も少し残っている。
四人はそこで夜を越すことにした。
◇
火を起こす。
薪が赤く燃える。
外では雪が降り続いている。
シオンは薬箱を膝に置いていた。
木箱に入った金属片も、その隣にある。
炎の明かりを受け、四つの紋章が揺らめく。
アカネが呟いた。
「炎。」
指先で一つ目を示す。
「風。」
二つ目。
「水。」
三つ目。
「そして……植物。」
四つ目。
「全部、今まで見てきたものだね。」
シオンは頷いた。
「でも。」
金属片を裏返す。
裏側には、もう一つの紋様が刻まれていた。
四つの流れが中心へ集まり、その中心から一本の線が伸びている。
その線は――
北ではなく。
下へ向かっていた。
「……下?」
ナギが覗き込む。
シオンは答えない。
薬箱を開く。
診療記録が、静かに一枚めくれた。
そこには新しい地図が描かれていた。
これまでの地図とは違う。
山。
川。
街道。
それらの下に、もう一本の線がある。
地中深くを走る、巨大な流れ。
そして、その線が四つの場所を繋いでいる。
炎神樹。
風神樹。
潮見の塔。
季節時計。
すべてが、その地下の流れに繋がっていた。
シオンは息を呑む。
「……地下。」
ガルドが低い声で言う。
「つまり。」
「俺たちが治してきたものは、全部……」
シオンは地図を見つめた。
「一つの身体。」
誰も言葉を失った。
炎も。
風も。
海も。
季節も。
別々のものではなかった。
世界そのものを巡る、巨大な生命の循環。
その一部だったのだ。
◇
その時。
小屋の外から音がした。
コン。
雪を踏む音。
四人が一斉に振り返る。
もう一度。
コン。
誰かが扉を叩いた。
ナギが立ち上がる。
「こんな山の中で?」
シオンは薬箱へ手を置く。
鼓動がする。
今までとは違う。
強い。
近い。
そして――
苦しんでいる。
シオンが扉へ近づく。
ゆっくり開ける。
吹雪の向こうに。
一人の少女が立っていた。
白い髪。
青白い顔。
薄い衣服。
裸足。
その胸には、小さな苗木を抱いている。
少女は震えながら、シオンを見上げた。
「……薬師……さん?」
シオンは目を見開いた。
少女の腕の中の苗木から。
淡い金色の光が、脈打つように漏れていた。
そして少女は、消え入りそうな声で言った。
「お願い……。」
「この子を……助けて。」
シオンは、少女の腕の中の苗木を見つめた。
薬箱が大きく震える。
カタン――。
診療記録が開く。
新しい頁に。
これまでで初めて。
患者の名前が、はっきりと刻まれた。
患者名――世界樹。




