第百四十三話
少女は、扉の前で立っていた。
吹雪の中にいたはずなのに、その身体には雪がほとんど積もっていない。
いや。
雪が触れる前に、淡い金色の光へ変わって消えている。
シオンは、少女の顔を見た。
唇は青白い。
頬も冷たい。
けれど、目だけは強く光っていた。
「入って。」
シオンが言う。
少女は小さく頷いた。
ふらつきながら、小屋の中へ入る。
その腕に抱かれている苗木から、また淡い光が漏れた。
……ドクン。
シオンの薬箱が応える。
カタン。
「その子を見せて。」
少女は苗木を抱きしめたまま、首を横に振った。
「……嫌。」
「この子を連れていかれるのは、嫌。」
「連れていかない。」
シオンは静かに答えた。
「治すだけ。」
少女の瞳が揺れた。
「……治せる?」
「分からない。」
シオンは嘘をつかなかった。
「でも、診る。」
少女はしばらく黙っていた。
やがて。
そっと苗木を差し出した。
◇
小屋の中央。
火のそばに毛布を敷く。
その上へ苗木を置いた。
小さな苗だった。
幹は細い。
葉も数枚しかない。
けれど、その葉の一枚一枚に、淡い金色の筋が走っている。
シオンは指先を伸ばした。
触れる。
温かい。
植物の温度ではない。
もっと深い。
大地の奥から流れてくるような温かさだった。
シオンは目を閉じる。
聞こえる。
小さな鼓動。
ドクン……。
しばらくして。
もう一度。
ドクン……。
弱い。
間隔が長い。
「……苦しいね。」
シオンが呟いた。
少女が頷く。
「ずっと。」
「いつから?」
「分からない。」
「気づいた時には、もうこうなってた。」
少女は苗木を見つめる。
「前は、もっと大きかった。」
「葉もいっぱいあった。」
「花も咲いた。」
「でも……。」
少女の声が震える。
「少しずつ、なくなっていった。」
◇
ガルドが苗木の根元を見る。
「土が悪いわけじゃない。」
ナギも周囲を確認する。
「虫もいない。」
アカネは葉を一枚だけ観察した。
「病気にも見えない。」
三人が顔を見合わせる。
シオンは苗木から手を離さなかった。
「身体じゃない。」
「え?」
「この子の中じゃない。」
シオンは胸元を指す。
「流れ。」
薬箱を開く。
診療記録には、すでに新しい文字が浮かんでいた。
生命活動――低下。
肉体的損傷――軽微。
生命循環――著しく低下。
そして。
最後の一行。
四つの流れとの接続――断裂寸前。
シオンは息を呑んだ。
「やっぱり……。」
炎神樹。
風神樹。
潮見の塔。
季節時計。
それぞれが守っていたもの。
そのすべてが、この小さな苗木へ繋がっている。
いや。
正確には――
この苗木から、世界へ繋がっている。
◇
「この子……何なの?」
アカネが尋ねた。
少女が答えた。
「世界樹。」
短い言葉だった。
誰も声を出さない。
少女は続ける。
「大きな木だった。」
「ずっと昔から、この山の上にあった。」
「みんなが季節を知る前から。」
「海が今の形になる前から。」
「この世界に風が吹く前から。」
シオンは静かに聞いていた。
「じゃあ、この苗木は?」
「最後の子。」
少女は俯いた。
「本体は、もう……。」
言葉が止まる。
「枯れたの?」
ナギが尋ねる。
少女は首を横に振った。
「死んでない。」
「でも……眠ってる。」
「ずっと。」
シオンは苗木を見た。
それなら。
まだ間に合う。
◇
突然。
小屋の中を強い風が吹き抜けた。
「うわっ!」
ナギが扉を押さえる。
炎が大きく揺れた。
苗木の葉が一斉に震える。
金色の光が、急激に弱くなった。
「シオン!」
アカネが叫ぶ。
シオンは苗木を抱えた。
「大丈夫。」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。
「ここにいる。」
苗木を胸元へ抱き寄せる。
光が少し戻る。
ほんのわずかに。
それでも。
確かに戻った。
少女が目を見開く。
「……どうして?」
シオンにも分からない。
ただ。
病人が苦しんでいる時。
薬師は、そのそばにいる。
それだけだった。
◇
その夜。
少女は眠った。
苗木を抱えたまま。
シオンは眠らず、その横に座っていた。
火が小さくなっていく。
薪を一本、くべる。
炎が戻る。
窓の外では、雪が降り続いている。
シオンは苗木を見つめた。
「……どうしたらいい?」
当然、答えはない。
それでも。
薬箱を開く。
診療記録が、静かに一枚めくれた。
そこには四つの印があった。
炎。
風。
水。
季節。
その中心に、小さな苗木。
そして。
その周囲に、一本の黒い線が描かれている。
四つの流れを断ち切るように。
シオンは、その線を指でなぞった。
「これ……。」
線の先を辿る。
北。
さらに北。
山を越え。
大地の下を通り。
その先へ。
地図の端で、線が一つの場所に集まっていた。
そこには。
小さな黒い印。
そして、その横に文字が浮かぶ。
枯れた泉。
シオンは息を止めた。
少女が眠っている。
ガルドも。
ナギも。
アカネも。
まだ知らない。
けれどシオンには分かった。
これまで治してきたものは、病の症状だった。
炎。
風。
海。
季節。
それらを元へ戻しても、世界樹はまだ苦しんでいる。
ならば。
もっと根本を診なければならない。
世界樹の根へ。
世界の地下を流れる、あの大きな循環へ。
そして。
その流れを止めている場所へ。
シオンは静かに薬箱を閉じた。
「次は……泉。」
窓の外。
吹雪の向こう。
北のさらに奥で、金色の光が一度だけ瞬いた。
まるで。
誰かが、待っているように。




