第百四十話
北へ向かう街道は、次第に細くなっていった。
麦畑は減り、代わりに低い丘が増えていく。
道端の草はまだ緑色をしていた。
木々にも葉がある。
けれど、季節の気配だけが薄かった。
鳥の声が少ない。
虫もほとんど飛んでいない。
風は吹いているのに、どこか温度がない。
アカネが肩を抱く。
「少し寒くなってきたね。」
ナギが空を見上げる。
「北へ来たんだから、当然だろ。」
ガルドが笑う。
「まだ冬じゃないぞ。」
その言葉に、シオンが足を止めた。
「……冬?」
三人が振り返る。
シオンは周囲を見渡した。
木々の葉。
草。
空。
どれも冬には見えない。
けれど、肌を撫でる風だけが妙に冷たい。
「冬じゃない。」
「でも。」
シオンは胸元へ手を当てる。
「冬の匂いがする。」
◇
夕方。
四人は山あいの小さな町へ入った。
町の入り口には、大きな木の門がある。
その横に古い看板が立っていた。
そこには、
『雪解け祭りまで、あと三日』
と書かれている。
ナギが首をかしげた。
「雪解け祭り?」
「雪なんてどこにもないぞ。」
ガルドが周囲を見る。
確かに雪はない。
道にも。
屋根にも。
山にも。
それなのに町の人々は、皆どこか落ち着かない顔をしていた。
広場では、大きな布を干している。
赤や青、黄色。
祭りに使う飾りだろう。
その隣では、老人たちが木を削っている。
子どもたちは小さな旗を持って走り回っていた。
祭りの準備だけは、進められている。
◇
シオンは一人の少女へ声を掛けた。
「お祭り?」
少女は頷く。
「うん。」
「雪解け祭り。」
「雪、降ったの?」
少女は不思議そうな顔をした。
「ううん。」
「今年はまだ。」
シオンは黙った。
「去年は?」
「降ったよ。」
「一昨年も。」
「ずっと降ってた。」
少女は少し寂しそうに笑う。
「でも今年は、まだなの。」
「もう祭りなのに。」
シオンは空を見上げた。
雪が降る気配はない。
雲もない。
けれど町の人々は、雪が降ることを信じて祭りの準備を続けている。
その姿が、どこか切なかった。
◇
宿の主人に話を聞くと、さらに奇妙なことが分かった。
「雪だけじゃありません。」
主人は湯気の立つスープを四人の前へ置いた。
「この町では、季節が少しずつ遅れているんです。」
「春の花が咲くのが遅い。」
「夏の果物が実るのも遅い。」
「秋の葉も色づかない。」
「そして冬になっても……雪が降らない。」
ナギが眉を寄せる。
「じゃあ、ずっと同じ季節なのか?」
「そういうわけでもない。」
主人は首を横に振った。
「少しずつ変わるんです。」
「ただ、何かが足りない。」
シオンが尋ねる。
「何が?」
主人は答えなかった。
代わりに窓の外を見た。
そこには、小さな畑がある。
畑の隅に一本の木が立っていた。
葉は緑。
けれど枝には、春の花も、夏の実も、秋の色もない。
ただ、葉だけがある。
「……時間ですよ。」
主人がぽつりと言った。
「この町では。」
「時間が、うまく流れていないんです。」
◇
その夜。
シオンは眠れなかった。
宿の窓を開ける。
冷たい風が入ってくる。
遠くで鐘が鳴った。
――一つ。
――二つ。
――三つ。
時計の音。
町のどこかに、大きな時計塔があるらしい。
シオンは音を追って宿を出た。
◇
町外れ。
古い時計塔が立っていた。
塔の時計は、午前二時を示している。
けれど、町の時計はすべて同じ時刻を指しているはずだった。
シオンはしばらく見つめた。
そして気づく。
秒針が動いていない。
分針も。
時針だけが、ほんの少しだけ揺れている。
まるで進もうとしているのに、進めない。
「……ここだ。」
シオンが呟く。
薬箱が震えた。
カタン。
蓋を開く。
診療記録に新しい文字が浮かんだ。
患者名
その下へ。
季節時計
シオンは息を呑む。
人ではない。
神樹でもない。
塔でもない。
今度の患者は――
季節そのものを動かしている時計だった。
そして、その文字の下に。
もう一行。
診療開始。
時計塔の奥で。
止まっていた歯車が、一度だけ。
カチン。
と音を立てた。




