第百三十九話
夜になった。
村は静かだった。
夕餉の煙もない。
子どもの笑い声もない。
家々の窓から漏れる明かりだけが、ぽつり、ぽつりと暗闇に浮かんでいる。
シオンは宿を借りた老人の家を出た。
「眠れないのか?」
ナギが声を掛ける。
シオンは頷いた。
「少し。」
「北のこと?」
「うん。」
老人の言葉が頭から離れなかった。
――春が来なくなった。
季節そのものがなくなる。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
シオンは村の外へ歩き出した。
◇
月明かりが畑を照らしている。
昼間よりも、異変がはっきり見えた。
麦は立っている。
野菜も枯れてはいない。
木々にも葉がある。
それなのに。
何一つ、次へ進もうとしていない。
花を咲かせない。
実をつけない。
種を作らない。
生きることだけを繰り返している。
シオンは一株の麦を手に取った。
穂を指先で撫でる。
「……疲れてる。」
昼間と同じ言葉が口からこぼれた。
けれど。
今回は少し違った。
この土地にある植物すべてが、同じ疲れ方をしている。
何かに力を吸われているような。
そんな感覚だった。
◇
その時。
森の奥で、かすかな光が見えた。
シオンは顔を上げる。
月明かりではない。
淡い白。
小さな光。
まるで蛍のように、木々の間で揺れている。
シオンはそちらへ歩いた。
草を分ける。
小さな丘を越える。
そして――
足を止めた。
「……花。」
一本の木が立っていた。
他の木々と同じように葉をつけている。
けれど、その枝には。
たった一輪。
白い花が咲いていた。
月明かりを受けて、淡く輝いている。
周囲には蕾すらない。
その一輪だけだった。
◇
シオンは近づく。
花へ触れる前に、まず木全体を見る。
葉。
枝。
幹。
根元。
病斑はない。
虫もついていない。
土も乾いていない。
むしろ。
この木だけが、異様なほど元気だった。
シオンは幹へ手を当てた。
温かい。
生きている。
そして。
ドクン。
掌へ、かすかな振動が伝わった。
シオンは目を閉じる。
炎神樹の鼓動とは違う。
風神樹とも違う。
潮見の塔とも違う。
もっと小さい。
けれど。
どこか懐かしい。
「……これ。」
シオンは薬箱を開いた。
診療記録が、まだ何もしていないのに勝手に開く。
白紙だった頁。
そこへ、一つの小さな絵が浮かび上がった。
今、目の前にある白い花。
シオンは息を呑む。
「知ってるの?」
誰もいない森へ問いかける。
当然、返事はない。
ただ。
花が一度だけ揺れた。
◇
シオンは花を採らなかった。
採る必要がない。
患者ではないからだ。
診るだけでいい。
花の根元へしゃがみ込み、土を少しだけ掘る。
白い根が伸びている。
その根の一本だけが、北へ向かっていた。
普通の根ではない。
地中深くへ潜るのではなく、横へ。
村の外へ。
さらに北へ。
シオンは根の先を目で追う。
土の下なので見えるわけではない。
それでも、なぜか分かる。
この木の根は。
北にある何かと繋がっている。
◇
後ろから足音がした。
アカネだった。
「やっぱりここにいた。」
シオンが振り返る。
「……ごめん。」
「謝らなくていいよ。」
アカネは隣へ座る。
そして白い花を見つめた。
「綺麗。」
「うん。」
「村の花は、みんな咲かないのに。」
「この木だけ。」
しばらく二人は黙っていた。
やがてアカネが言う。
「どうしてだと思う?」
シオンは答えるまで少し時間をかけた。
「……北から。」
「何かが流れてる。」
「この木は、それを受けてる。」
だから咲ける。
逆に。
他の植物には、その流れが届いていない。
あるいは――
途中で何かに遮られている。
◇
その時だった。
遠くから。
リン……。
鈴の音が聞こえた。
二人が顔を上げる。
村には社などなかったはずだ。
それなのに。
北の山の方から、もう一度。
リン……。
今度ははっきり聞こえた。
白い花が揺れる。
花びらが一枚、風に乗って飛んだ。
北へ。
シオンは立ち上がった。
薬箱の中で、診療記録がひとりでに閉じる。
代わりに。
蓋の内側へ、淡い光で一本の線が浮かんだ。
村から北へ。
そして、その先に小さな印。
シオンはその光を見つめる。
「……あそこ。」
アカネも頷く。
「次の患者?」
シオンは首を横に振った。
「違う。」
「道。」
患者へ向かうための道。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど。
今度は診療記録ではなく、一輪の花が道を教えてくれた。
◇
翌朝。
シオンたちは村を発つことにした。
老人が見送りに出てくる。
「北へ行くのか。」
「はい。」
老人はしばらく黙っていた。
そして、古びた布袋を差し出した。
「これを持っていけ。」
中には、小さな種が入っていた。
「昔、この村で採れた種だ。」
「もう何年も芽が出ない。」
「だが……捨てられなくてな。」
シオンは袋を受け取った。
種を一粒、掌へ載せる。
乾いている。
死んではいない。
ほんのわずかに。
命の気配が残っている。
「……持っていきます。」
老人は驚いた顔をした。
「植えるのか?」
シオンは北を見た。
「いつか。」
「咲くかもしれない。」
老人は笑った。
久しぶりに見た、穏やかな笑顔だった。
四人は北へ向かって歩き始める。
背後では、村の外れの木が風に揺れていた。
そしてその枝では。
昨日まで一輪だった白い花の隣に――
小さな蕾が、ひとつ。
静かに膨らみ始めていた。




