第百三十八話
朝露が、草の葉を濡らしていた。
夜明けとともに野営地を発った四人は、昨日と同じ街道を北へ歩いていた。
空は青い。
風もある。
鳥の声も聞こえる。
どこにでもある、穏やかな朝だった。
ナギが大きな欠伸をする。
「昨日のパン、もう一個買っとけばよかったなあ」
「まだ言ってるの?」
アカネが笑う。
「だってうまかったんだぞ」
「半分以上、ナギが食べたじゃない」
「歩くと腹が減るんだよ」
その少し後ろを歩いていたガルドが笑った。
「次の町で食えばいいだろ」
「あるかな?」
「北の小麦は世界一、なんだろ?」
「ああ、それなら期待できるな」
三人の笑い声が街道へ響く。
シオンは、その後ろをゆっくり歩いていた。
いつものように道端の草を眺めながら。
薬草。
雑草。
小さな花。
名前を知っているものもあれば、知らないものもある。
知らない植物を見つけるたび、少し嬉しくなる。
だから最初は。
本当に、偶然だった。
「……あれ?」
シオンが立ち止まる。
道端に、小さな紫色の花があった。
昨日見つけた眠草だ。
けれど。
花が開いていない。
シオンはしゃがみ込んだ。
朝だからではない。
眠草は夜明けとともに花を開く。
昨日、自分の目で確かめている。
指先で触れる。
葉は柔らかい。
枯れてはいない。
茎もしっかりしている。
なのに。
蕾だけが固く閉じていた。
「シオン?」
気づいたアカネが戻ってくる。
「どうしたの?」
「……咲いてない。」
「花?」
シオンは頷く。
アカネも隣へしゃがむ。
「これ、昨日の花だよね?」
「うん。」
「まだ朝だからじゃない?」
「違う。」
シオンは静かに蕾を見つめた。
「咲く時間。」
「もう過ぎてる。」
◇
少し先へ進んだ。
そこにも眠草があった。
咲いていない。
さらに歩く。
また一株。
それも咲いていない。
十株。
二十株。
どれも同じだった。
葉は生きている。
茎も生きている。
なのに花だけが開かない。
シオンの歩みが、少しずつ遅くなる。
やがてガルドも気づいた。
「気になるのか?」
「……うん。」
シオンは立ち止まり、辺りを見渡した。
そこで初めて気づく。
昨日まで。
街道の両側を埋め尽くしていた麦畑。
黄金色だった。
風が吹けば、大きな波のように揺れていた。
ところが今は――。
「色が……。」
アカネが呟いた。
薄い。
枯れているわけではない。
黄色でもない。
緑でもない。
まるで何度も水で洗った布のように、麦の色そのものが抜け落ちている。
ナギが一本の穂を取る。
指先で揉む。
「実は入ってるぞ」
ガルドも確かめた。
「腐ってもいない」
「だったら何で……」
アカネの言葉が途中で止まる。
シオンは麦の穂を一粒だけ取り、掌へ載せた。
鼻へ近づける。
「……匂いがない。」
「え?」
ガルドも麦を嗅ぐ。
眉をひそめた。
本来なら感じるはずの、乾いた穀物の香りがしない。
ナギも確かめる。
「本当だ……。」
昨日食べたパン。
噛んだ瞬間に広がった、あの香ばしい匂い。
その原料と同じものとは、とても思えなかった。
◇
シオンは薬箱を開いた。
診療記録を取り出す。
しかし。
何も起こらない。
ページは開かない。
文字も現れない。
「反応しないの?」
アカネが尋ねる。
シオンは頷いた。
「患者じゃない。」
そして少し考え、言い直した。
「……まだ。」
その言葉に、ナギが振り返る。
「まだ?」
シオンは答えなかった。
代わりに道の先を見た。
北へ続く街道。
その両側。
ずっと遠くまで。
色の薄い麦畑が続いている。
◇
昼を過ぎても、景色は変わらなかった。
むしろ北へ進むほど、色は薄くなっていった。
花は咲かない。
虫も減った。
鳥の声も、いつの間にか聞こえなくなっている。
そして。
夕暮れ前。
四人は小さな村へたどり着いた。
「……着いた。」
ナギがほっとした声を漏らす。
十数軒ほどの家。
小さな井戸。
納屋。
畑。
どこにでもありそうな農村だった。
だが。
煙がない。
夕餉の時間なのに、どの家の竈からも煙が上がっていなかった。
子どもの声もしない。
家畜の鳴き声もしない。
「……静かすぎる。」
ガルドが呟いた。
四人は顔を見合わせる。
ゆっくり村へ入った。
◇
広場まで来た時だった。
一軒の家の扉が開いた。
老人が出てくる。
痩せていた。
ひどく痩せている。
それでも四人を見ると、驚いたように目を見開いた。
「旅の……方か?」
声にも力がない。
ナギが一歩前へ出る。
「北へ向かっています。今夜だけ泊めてもらえればと思って」
老人はしばらく黙っていた。
そして。
「北へ……?」
その表情が変わった。
「行ってはいかん。」
ナギが眉を寄せる。
「どうしてです?」
老人は北を見た。
遠く。
山々が連なる方角。
昨日から見えていた金色の光が、今日も空の端に浮かんでいる。
老人は震える声で言った。
「あっちでは……。」
一度、唇を噛む。
「春が来なくなった。」
◇
シオンが顔を上げた。
春。
今は、春ではない。
なのに老人は確かにそう言った。
「どういう意味?」
アカネが尋ねる。
老人は答えなかった。
ただ畑を指差した。
そこには麦がある。
野菜もある。
木も生えている。
すべて生きている。
けれど。
花だけがない。
実もない。
香りもない。
「枯れはせん。」
老人が言う。
「だが、育ちもしない。」
「花は咲かん。」
「実も太らん。」
「種を蒔いても……次へ繋がらん。」
シオンの表情が変わった。
それは死ではない。
病とも少し違う。
生きているのに。
命が、その先へ進めなくなっている。
◇
その瞬間だった。
カタン。
薬箱が鳴った。
シオンが振り返る。
カタン。
もう一度。
ゆっくり蓋を開く。
診療記録が浮かび上がった。
ページがめくられていく。
炎神樹。
風神樹。
潮見の塔。
そして――。
新しい頁。
そこへ、一文字ずつ現れる。
症状確認。
シオンは息を止めた。
次の文字を待つ。
生命循環の低下。
さらに。
原因──不明。
シオンの眉がわずかに動く。
診療記録が。
原因を分からないと言っている。
こんなことは初めてだった。
そして最後に。
もう一行だけ浮かび上がった。
患者は、この村にはいない。
風が吹いた。
咲かない花が揺れる。
色を失った麦が揺れる。
そのすべてが同じ方向へ頭を垂れていた。
北。
まるで。
そこにいる何かへ向かって――
助けを求めているように。




