第136話
潮見の塔を後にした翌朝。
島には、穏やかな潮騒が戻っていた。
海鳥たちは塔の周りを楽しげに飛び交い、昨日まで沈黙していた浜辺には、小さなカニたちが忙しそうに歩いている。
ガルドは塔を見上げ、満足そうに腕を組んだ。
「これなら、あと百年は働ける。」
塔の中から聞こえる歯車の音は、規則正しく、優しかった。
職人にとって、それは健康な鼓動そのものだった。
シオンも静かに頷く。
「いい音。」
それだけで十分だった。
◇
小舟が港へ戻ると、船着き場は朝の賑わいに包まれていた。
漁師たちが網を運び、市場では魚が並べられている。
その中を、一人の若い郵便配達人が駆け回っていた。
肩には革鞄。
汗をぬぐいながら、何枚もの手紙を配っている。
「あっ!」
配達人はシオンたちを見るなり、足を止めた。
「旅の薬師さんですよね?」
シオンは首をかしげる。
「……うん。」
青年は鞄の奥から、一通の封筒を取り出した。
厚手の羊皮紙で作られた、見覚えのない封筒だった。
「これを預かっています。」
「あなた宛てです。」
ナギが驚く。
「俺たちの居場所なんて誰も知らないはずだぞ。」
青年も困ったように笑う。
「不思議なんです。」
「昨日の朝には、もう港へ届いていました。」
◇
封には、名前だけが書かれていた。
旅の薬師 シオン殿
差出人はない。
封蝋には、大樹を象った紋章だけが刻まれている。
シオンは静かに封を切った。
中には、一枚だけ便箋が入っていた。
整った文字で、短く書かれている。
北へ来てください。
時間がありません。
それだけだった。
地名もない。
理由もない。
ただ、その二行だけ。
◇
ガルドが眉をひそめる。
「誰の悪戯だ?」
ナギは便箋を裏返す。
「何も書いてない。」
アカネだけが、じっと封蝋を見つめていた。
「……この紋章。」
「どこかで見たことがある。」
シオンは便箋を薬箱へ重ねる。
その瞬間。
薬箱が強く震えた。
カタン!
今までで一番大きな音だった。
診療記録が勢いよく開く。
ページが風もないのにめくれていく。
炎神樹。
風神樹。
潮見の塔。
すべての記録を飛び越え、白紙だった頁で止まる。
墨が滲むように、新しい文字が浮かぶ。
往診依頼 受理
さらに、その下へ。
患者は、あなたを待っています。
部屋の空気が静まり返る。
ナギが思わず呟いた。
「薬箱が……依頼を受けた?」
シオンも、こんなことは初めてだった。
これまでは薬箱が患者を示した。
しかし今回は違う。
誰かが、薬箱を通じてシオンへ助けを求めてきた。
◇
その夜。
港町を出る準備を終えた四人は、丘の上から北の空を眺めていた。
夕焼けが消え、群青色の空へ最初の星が瞬く。
その中で、北の地平線だけが淡く金色に光っていた。
アカネが小さく息をのむ。
「……あれ。」
ガルドも目を細める。
「あんな光、昨日はなかった。」
シオンは薬箱を抱きしめる。
その鼓動は、これまでとは比べものにならないほど力強い。
まるで遠く離れた誰かの鼓動と、響き合っているようだった。
シオンは静かに口を開く。
「行こう。」
短い一言。
しかしその言葉には、これまでとは違う決意が込められていた。
受け身だった旅は終わる。
ここから先は、助けを求める誰かのもとへ、自ら向かう旅になる。
そして北の大地には、この世界の運命を左右する、これまでで最も大きな「患者」が待っていた。




