第百三十五話
朝の光が、高い窓から塔の中へ差し込んでいた。
ガルドは最後の蔓を慎重にほどいていく。
長い年月をかけて歯車へ絡みついた蔓は、木の根のように複雑だった。
「焦るな……。」
独り言のように呟きながら、小さな刃を滑らせる。
一本。
また一本。
ようやく最後の蔓が外れた。
歯車がわずかに沈み込み――
コトン。
軽い音を立てた。
「よし。」
ガルドは工具を置き、静かに息を吐く。
◇
その頃、アカネは塔の外壁を洗い続けていた。
潮風が運ぶ塩は、石の目地にまで入り込んでいる。
薬草を煎じた洗浄液を布へ含ませ、一枚ずつ石を磨く。
白かった石は少しずつ本来の色を取り戻し、通風孔にも風が通り始めた。
ふわり。
細い風が塔の中を抜ける。
「入った……。」
アカネが嬉しそうに微笑んだ。
◇
ナギは最上階まで登っていた。
塔の頂上には、青銅で作られた大きな輪が据えられている。
その中心には、水晶のように透き通った球体。
しかし、球体は曇っていた。
鳥の羽。
砂。
潮。
長い年月の汚れが、光を遮っている。
ナギは袖でそっと拭った。
曇りは少しずつ消えていく。
その時だった。
朝日が球体へ差し込む。
淡い蒼色の光が、塔の内部へ降り注いだ。
◇
シオンは一階で、その光を見上げていた。
薬箱が静かに震える。
診療記録がひとりでに開く。
処置完了まで、あと一工程。
その下に、初めて図が描かれる。
一本の歯車。
その軸を示す小さな印。
シオンは顔を上げた。
「ガルド。」
「ん?」
「軸。」
「油が切れてる。」
ガルドは目を見開いた。
急いで中央の主軸へ駆け寄る。
指で触れる。
乾いている。
油が完全になくなっていた。
「なるほど……。」
何百年も回り続けた軸。
誰も手入れをする者がいなくなり、少しずつ動きを失っていたのだ。
◇
ガルドは革袋から、小瓶を取り出す。
透明な機械油。
旅の途中でも欠かさず持ち歩いている職人の道具だった。
「シオン。」
「一本貸してくれ。」
シオンは薬箱から細い竹の匙を渡す。
ガルドはそれを使い、油を一滴だけ軸へ落とした。
……とくん。
塔が息をついたような気がした。
さらにもう一滴。
もう一滴。
油が軸へ染み込んでいく。
ガルドはゆっくりと歯車へ手を添えた。
「行くぞ。」
ほんの少しだけ押す。
カチ。
小さな歯車が動く。
その力が隣へ伝わる。
カチ、カチ。
さらに大きな歯車へ。
ゴト……。
塔全体へ。
やがて。
ゴウン……。
低く、柔らかな音が響いた。
止まっていた機構が、ゆっくりと回り始める。
◇
その瞬間だった。
塔の頂上の水晶が、青白く輝いた。
光は空へ向かって一本の柱となる。
同時に。
島の周囲の海が、静かに揺れた。
止まっていた潮が動き始める。
右へ。
左へ。
複雑に絡まっていた流れが、一本の大きな流れへ戻っていく。
港で苦しそうに浮かんでいた魚たちの姿が、シオンの脳裏によぎった。
きっと今ごろ、あの魚たちは深い海へ戻っているだろう。
◇
診療記録の最後のページへ、新しい文字が浮かぶ。
患者名 潮見の塔
診療完了
そして、その下にこれまでなかった一文が現れる。
塔は潮を動かしていたのではない。
世界の流れを、正しい道へ導いていた。
シオンはその文字を静かに見つめる。
炎神樹は炎脈を。
風神樹は風路を。
そして、この塔は海の流れを。
それぞれ別のものを守っているように見えて、本当はすべてが一つの大きな循環の一部だった。
シオンは薬箱を閉じる。
その音は、どこか確信に満ちていた。
世界は壊れ始めているのではない。
世界は、助けを求めながら、懸命に生き続けている。
その命の声を聞ける薬師がいる限り、旅はまだ終わらない。




