第百三十三話
小舟が静かに島へ着いた。
波は穏やかだった。
それなのに、不思議なことに潮の流れだけが絶えず向きを変えている。
まるで迷っているように。
船長が首をかしげた。
「こんな潮は見たことがない……。」
シオンは砂浜へ降り立つ。
白い砂。
丸く磨かれた貝殻。
潮の香り。
そして島の中央には、白い石で積み上げられた塔が立っていた。
遠くから見えた塔である。
◇
塔へ近づくにつれ、シオンは違和感を覚えた。
「静か……。」
ナギも耳を澄ませる。
「波の音まで小さいな。」
本来なら岩へ砕ける波が響くはずだった。
しかし、この島では波が音を立てない。
いや。
音が吸い込まれている。
ガルドは塔の石壁へ手を当てた。
「中が空洞だ。」
コン、と軽く叩く。
乾いた音が返ってくる。
塔は見張り台ではない。
もっと別の役目を持っている。
◇
入口には青銅の扉があった。
錆びついているが、壊れてはいない。
中央には、渦を描く紋章。
その周りを囲むように、四つの紋様が刻まれている。
炎。
風。
水。
そして最後に、芽吹く若葉。
アカネが息をのんだ。
「炎と風……。」
シオンも静かに見つめる。
これまで診てきた神樹と同じ紋章だった。
つまり、この塔は偶然ここに建っているわけではない。
◇
薬箱が、小さく震えた。
カタン。
診療記録がひとりでに開く。
新しい文字が浮かぶ。
患者名
一文字ずつ。
ゆっくりと。
潮見の塔
ナギが驚いて声を上げた。
「塔が患者なのか?」
シオンは少しだけ微笑んだ。
「うん。」
「初めて。」
人でもない。
神樹でもない。
人々が何百年も守り続けてきた建物。
それが今回の患者だった。
◇
シオンは扉へ近づく。
指先でそっと青銅へ触れる。
ひんやりと冷たい。
だが、その奥から微かな振動が伝わってきた。
ドクン。
心臓のような鼓動ではない。
もっと規則正しい。
ゴウン……。
ゆっくり回っていた歯車が、止まりかけているような音。
シオンは目を閉じた。
耳を澄ます。
薬師は人の脈を診る。
樹木の樹液を診る。
そして今、初めて機械の鼓動を診ている。
しばらくして、静かに目を開いた。
「病気じゃない。」
ガルドが眉を上げる。
「じゃあ何だ?」
シオンは扉の向こうを見つめた。
「……疲れてる。」
誰も声を発しなかった。
何百年も潮の流れを支え続けた塔。
壊れたのではない。
役目を果たし続け、静かに力尽きようとしている。
それは、長い年月を働き続けた職人の手にも似ていた。
シオンはそっと扉に手を添える。
「大丈夫。」
「休ませてあげよう。」
その言葉に応えるように、錆びついていた青銅の扉が――
ギィ……。
長い眠りから目覚めるように、ゆっくりと開き始めた。




