第百三十二話
翠色の光は、一瞬で消えた。
まるで最初から何もなかったかのように、海は再び深い青へ戻る。
誰も言葉を発しなかった。
波の音だけが、小さく船腹を叩いている。
コトン。
コトン。
シオンは船縁に身を乗り出したまま、水面を見つめていた。
「見えたか?」
ナギが静かに尋ねる。
シオンはゆっくり頷く。
「……うん。」
「光。」
それ以上は言わない。
まだ確信がないからだ。
薬師は、見えたものをすぐ病名にしない。
確かめるまでは、すべてが仮説だった。
◇
船長が櫂を手に取る。
「風が戻るまで漕ぐしかないな。」
しかし、櫂を水へ入れた瞬間だった。
ゴボッ。
大きな泡が浮かび上がる。
船長は慌てて櫂を引いた。
「……底に流れがある。」
海面は静かだ。
それなのに海の下だけが、大きく動いている。
ガルドが縄を取り出した。
先へ小さな鉛を結び、海へ沈める。
どこまで沈んでも、縄は真っ直ぐ落ちない。
途中から横へ引かれていく。
「潮じゃねぇ。」
ガルドが眉を寄せる。
「下で何かが吸ってる。」
その言葉に、アカネの表情が曇った。
「吸ってる……?」
◇
シオンは薬箱を開き、小さな硝子瓶を取り出した。
透明な瓶へ海水を汲む。
光にかざす。
濁りはない。
匂いも普通だ。
だが、瓶を耳へ近づけた。
目を閉じる。
静かに振る。
ちゃぷん。
ちゃぷん。
その水音の奥に、かすかな震えが混じっている。
まるで誰かが、小さく息を詰めているような。
「……苦しい。」
シオンは瓶を胸へ抱いた。
「水が?」
アカネが尋ねる。
シオンは首を横に振る。
「違う。」
「水じゃない。」
「流れ。」
ナギが腕を組む。
「流れが病気ってことか。」
シオンは少し考え込み、それから答えた。
「流れは。」
「命。」
「止まると。」
「全部、苦しくなる。」
炎神樹では炎脈。
風神樹では風路。
どちらも"流れ"が滞っていた。
ならば海も同じなのかもしれない。
◇
その時。
空から甲高い鳴き声が聞こえた。
助けたあの海鳥だった。
白い翼を大きく広げ、小舟の上を一周する。
「また来たのか。」
ナギが笑う。
海鳥は鳴きながら沖へ飛んでいく。
しかし、途中で旋回し、また戻ってくる。
まるで「ついて来て」と言うように。
ガルドが目を細めた。
「俺たちを呼んでる……のか?」
海鳥は再び沖へ向かい、少し進むと待つように旋回する。
それを何度も繰り返した。
シオンは静かに立ち上がる。
「行こう。」
「でも風が……」
アカネが言いかけた、その時だった。
ふわり、と一筋の風が帆を撫でた。
ほんのわずか。
海鳥が飛ぶ方向へだけ吹く風。
船長が目を見張る。
「……風が道を作ってる。」
帆がゆっくりと膨らむ。
小舟は静かに向きを変えた。
まるで見えない誰かに導かれるように。
◇
夕暮れ。
空が茜色へ染まり始めた頃。
水平線の向こうに、小さな影が浮かび上がる。
島だった。
地図には記されていない、岩だらけの小島。
草木は少なく、中央には白い石の塔のようなものが立っている。
海鳥はその塔の上へ降り立つと、一度だけ大きく鳴いた。
――キィーッ。
その声に応えるように。
島の足元の海が、淡い翠色にゆっくりと光り始める。
シオンは薬箱へ手を添えた。
鼓動が伝わる。
炎でもない。
風でもない。
もっと深く、静かな鼓動。
診療記録はまだ何も告げない。
それでもシオンには分かっていた。
この島には、誰かが待っている。
長い間、誰にも気づかれることなく、助けを求め続けてきた存在が。




