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辺境薬師の街づくり  作者: 灯野 しおん
第6章 「灰降る国」

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第百三十二話

翠色の光は、一瞬で消えた。


 まるで最初から何もなかったかのように、海は再び深い青へ戻る。


 誰も言葉を発しなかった。


 波の音だけが、小さく船腹を叩いている。


 コトン。


 コトン。


 シオンは船縁に身を乗り出したまま、水面を見つめていた。


「見えたか?」


 ナギが静かに尋ねる。


 シオンはゆっくり頷く。


「……うん。」


「光。」


 それ以上は言わない。


 まだ確信がないからだ。


 薬師は、見えたものをすぐ病名にしない。


 確かめるまでは、すべてが仮説だった。


     ◇


 船長が櫂を手に取る。


「風が戻るまで漕ぐしかないな。」


 しかし、櫂を水へ入れた瞬間だった。


 ゴボッ。


 大きな泡が浮かび上がる。


 船長は慌てて櫂を引いた。


「……底に流れがある。」


 海面は静かだ。


 それなのに海の下だけが、大きく動いている。


 ガルドが縄を取り出した。


 先へ小さな鉛を結び、海へ沈める。


 どこまで沈んでも、縄は真っ直ぐ落ちない。


 途中から横へ引かれていく。


「潮じゃねぇ。」


 ガルドが眉を寄せる。


「下で何かが吸ってる。」


 その言葉に、アカネの表情が曇った。


「吸ってる……?」


     ◇


 シオンは薬箱を開き、小さな硝子瓶を取り出した。


 透明な瓶へ海水を汲む。


 光にかざす。


 濁りはない。


 匂いも普通だ。


 だが、瓶を耳へ近づけた。


 目を閉じる。


 静かに振る。


 ちゃぷん。


 ちゃぷん。


 その水音の奥に、かすかな震えが混じっている。


 まるで誰かが、小さく息を詰めているような。


「……苦しい。」


 シオンは瓶を胸へ抱いた。


「水が?」


 アカネが尋ねる。


 シオンは首を横に振る。


「違う。」


「水じゃない。」


「流れ。」


 ナギが腕を組む。


「流れが病気ってことか。」


 シオンは少し考え込み、それから答えた。


「流れは。」


「命。」


「止まると。」


「全部、苦しくなる。」


 炎神樹では炎脈。


 風神樹では風路。


 どちらも"流れ"が滞っていた。


 ならば海も同じなのかもしれない。


     ◇


 その時。


 空から甲高い鳴き声が聞こえた。


 助けたあの海鳥だった。


 白い翼を大きく広げ、小舟の上を一周する。


「また来たのか。」


 ナギが笑う。


 海鳥は鳴きながら沖へ飛んでいく。


 しかし、途中で旋回し、また戻ってくる。


 まるで「ついて来て」と言うように。


 ガルドが目を細めた。


「俺たちを呼んでる……のか?」


 海鳥は再び沖へ向かい、少し進むと待つように旋回する。


 それを何度も繰り返した。


 シオンは静かに立ち上がる。


「行こう。」


「でも風が……」


 アカネが言いかけた、その時だった。


 ふわり、と一筋の風が帆を撫でた。


 ほんのわずか。


 海鳥が飛ぶ方向へだけ吹く風。


 船長が目を見張る。


「……風が道を作ってる。」


 帆がゆっくりと膨らむ。


 小舟は静かに向きを変えた。


 まるで見えない誰かに導かれるように。


     ◇


 夕暮れ。


 空が茜色へ染まり始めた頃。


 水平線の向こうに、小さな影が浮かび上がる。


 島だった。


 地図には記されていない、岩だらけの小島。


 草木は少なく、中央には白い石の塔のようなものが立っている。


 海鳥はその塔の上へ降り立つと、一度だけ大きく鳴いた。


 ――キィーッ。


 その声に応えるように。


 島の足元の海が、淡い翠色にゆっくりと光り始める。


 シオンは薬箱へ手を添えた。


 鼓動が伝わる。


 炎でもない。


 風でもない。


 もっと深く、静かな鼓動。


 診療記録はまだ何も告げない。


 それでもシオンには分かっていた。


 この島には、誰かが待っている。


 長い間、誰にも気づかれることなく、助けを求め続けてきた存在が。

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