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辺境薬師の街づくり  作者: 灯野 しおん
第6章 「灰降る国」

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第百三十一話

港を離れて半日。


 小舟は穏やかな海を進んでいた。


 帆は風を受け、一定の速さで静かに膨らんでいる。


 波は小さい。


 空には雲ひとつない。


 旅には申し分のない天気だった。


 ガルドは船縁にもたれ、工具箱を膝に置いていた。


 金具を磨き、刃を研ぎ、旅の合間にも手を休めない。


 ナギは船首で地図を広げている。


「次の印までは、あと二日くらいか。」


 アカネは海を見つめながら微笑んだ。


「こんな静かな海なら、あっという間だね。」


 シオンも小さく頷いた。


「……うん。」


 その時だった。


 帆が、不自然にしぼんだ。


 ぱさり。


 風が消えた。


 船長が空を見上げる。


「おかしいな……。」


 海は凪いでいる。


 嵐の前触れでもない。


 それなのに、風だけが突然途切れた。


 船はゆっくりと速度を失い、その場に浮かんだまま動かなくなる。


     ◇


 しばらくすると。


 船の周りの海面に、小さな輪が広がり始めた。


 ぽつり。


 ぽつり。


 雨ではない。


 水中から泡が浮かび上がっている。


 ガルドが身を乗り出す。


「魚か?」


 違った。


 海面へ顔を出したのは、小さな銀色の魚だった。


 一匹。


 また一匹。


 何十匹もの魚が船の周りへ集まってくる。


 だが、跳ねようとしない。


 ただ静かに水面へ口を出し、苦しそうに呼吸を繰り返していた。


 アカネが眉をひそめる。


「酸欠……?」


 シオンはしゃがみ込み、水へ手を入れた。


 冷たい。


 澄んでいる。


 濁りもない。


 それでも何かがおかしい。


 魚たちは、水そのものを恐れるように浮かび続けている。


     ◇


 薬箱が、小さく震えた。


 カタン。


 シオンはゆっくり蓋を開く。


 診療記録がひとりでに開く。


 白紙だった頁へ、淡い文字が浮かび上がる。


往診記録


 さらに一文字ずつ、墨が染みるように続いていく。


患者──未確認


 シオンは目を細めた。


 神樹ではない。


 村でもない。


 患者名が書かれないのは、初めてだった。


 その代わり、診療記録の下に短い一文が現れる。


まず、水の声を聴きなさい。


 ページは、それ以上何も書かなかった。


     ◇


 シオンは薬箱を閉じると、小さな木製の聴診器を取り出した。


 ナギが驚いたように笑う。


「まさか、海まで診るのか?」


 シオンは真剣な表情のまま答えた。


「患者が。」


「決める。」


 自分が診たいものを診るのではない。


 助けを求めているものを診る。


 それが薬師だ。


 シオンは船縁へ膝をつき、木製の聴診器をそっと船底へ当てた。


 耳を澄ます。


 聞こえてくるのは、小さな波の音。


 船材のきしむ音。


 そして、その奥。


 かすかに。


 ゴ……。


 低く、長く続く響き。


 まるで海の底で、大地そのものが息をついているような音だった。


 シオンは静かに目を開く。


「……違う。」


「海が苦しいんじゃない。」


 三人が息をのむ。


 シオンは、ゆっくりと海の底を見つめた。


「海の下で。」


「誰かが、苦しんでる。」


 その瞬間――。


 船の真下の深い青が、一瞬だけ淡く翠色に輝いた。


 まるで海底で、巨大な何かが静かに目を開けたかのように。

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