第百三十話
翌朝。
港町は、朝早くから活気に満ちていた。
漁船が次々と沖へ出ていく。
市場では威勢のいい掛け声が響き、焼きたてのパンの香りが路地を満たしていた。
シオンたちは宿を出る前に、市場を歩いていた。
「干し肉を少し買っておこう。」
ナギが荷袋を叩く。
「この先、町があるとは限らないからな。」
ガルドも縄や油を買い足している。
旅は治療だけでは続けられない。
食料も、道具も、備えも必要だった。
シオンは露店に並ぶ薬草へ目を留めた。
見慣れた葉。
見慣れない花。
土地が変われば、薬も変わる。
店番をしていた老女が笑う。
「旅のお方かい?」
シオンは頷いた。
「薬師。」
「ほう。」
老女は籠の奥から、一株の青い草を取り出した。
「これは海風草だよ。」
「潮に当たった咳によく効く。」
シオンは葉を指先で揉み、香りを確かめる。
潮の香りの奥に、ほんのりと甘い匂い。
知らない薬草だった。
「……買います。」
老女は嬉しそうに笑った。
「薬師さんなら、この子も喜ぶよ。」
シオンは大切そうに薬箱へしまう。
旅は、人だけでなく薬との出会いでもあった。
◇
市場を抜けようとした時だった。
「先生!」
幼い声が聞こえた。
振り向くと、小さな男の子が転びながら駆け寄ってくる。
後ろから母親が慌てて追いかけていた。
「すみません!」
「この子が急に……。」
男の子はシオンを見上げ、両手を差し出した。
その掌には、一羽の小鳥がいた。
灰色の小さな海鳥。
片方の翼をだらりと下げ、苦しそうに目を閉じている。
シオンはしゃがみ込んだ。
「診てもいい?」
男の子は何度も頷く。
シオンはそっと小鳥を受け取った。
翼を広げる。
骨は折れていない。
羽根の付け根を触れる。
熱もない。
しかし、細い糸が翼へ絡みついていた。
漁網の切れ端だった。
「これか。」
シオンは薬箱から小さな鋏を取り出す。
糸を一本ずつ切る。
羽を傷めないよう、慎重に。
やがて最後の一本が切れると、小鳥は小さく身震いした。
翼を広げる。
ぱた。
ぱたぱた。
まだ弱々しい。
けれど、自分で動かせる。
「大丈夫。」
シオンは男の子へ微笑んだ。
「少し休めば飛べる。」
男の子の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう!」
その笑顔を見て、母親も深く頭を下げた。
◇
港へ戻る途中。
アカネが小さく笑う。
「人だけじゃないんだね。」
シオンは首を傾げる。
「?」
「鳥まで診ちゃうなんて。」
シオンは少し考えてから答えた。
「痛いのは。」
「同じ。」
ナギが吹き出した。
「それがお前らしいな。」
ガルドも笑いながら肩をすくめる。
「薬師っていうより、世話焼きだ。」
シオンは照れたように視線を逸らした。
その時だった。
助けた小鳥が、港の杭からふわりと飛び立つ。
一度だけ大きく旋回すると、青い空の彼方へ消えていった。
その姿を見送る薬箱が、かすかに震える。
カタン。
シオンは静かに蓋へ手を置く。
診療記録は開かない。
けれど、その温もりは昨日よりも少しだけ強くなっていた。
まるで、「急がなくていい」と語りかけるように。
シオンは海の向こうを見つめる。
次の患者が待つ場所へ。
まだ名も知らない土地へ向かって、小舟は静かに帆を広げ始めた。




