第百二十九話
小舟は、穏やかな海を進んでいた。
帆を膨らませる風は心地よく、海鳥が一羽、船の上を大きく旋回する。
ナギは船縁へ腰を下ろし、大きく背伸びをした。
「いやあ、今回は長居したな。」
ガルドが笑う。
「珍しく腰を落ち着けた旅だった。」
アカネも頷く。
「風が吹く音を聞きながら眠れたの、久しぶりだった。」
シオンは黙って海を眺めていた。
潮風が頬を撫でる。
その風は、風神樹の村で感じたものと、どこかよく似ていた。
◇
昼過ぎ。
小舟は小さな入り江へ寄港した。
船長が笑って声を掛ける。
「次の便は明日の朝ですよ。今日はここで休んでいきなさい。」
四人は礼を言い、港町へ足を踏み入れた。
石畳の続く小さな町。
漁師たちの威勢のいい声。
市場から漂う焼き魚の香り。
子どもたちの笑い声。
どこにでもある、平和な港町だった。
ナギが嬉しそうに言う。
「やっぱり賑やかな町はいいな。」
シオンも小さく頷く。
「……うん。」
人々の声がある。
それだけで、どこか安心する。
◇
宿へ入り、荷物を下ろした頃だった。
薬箱が、かすかに震えた。
カタ……。
シオンの手が止まる。
「?」
もう一度。
カタン。
薬箱が、自ら蓋を鳴らした。
シオンは静かに近寄る。
ゆっくり蓋を開く。
世界樹の診療記録が、ひとりでにページをめくり始めた。
パラ……
パラ……
炎神樹。
風神樹。
診療記録が順に現れ、そして閉じる。
さらにページは進む。
誰も書いていない、新しい頁。
真っ白だった。
シオンは待った。
いつものように文字が浮かぶはずだった。
しかし。
何も書かれない。
「……壊れた?」
ナギが覗き込む。
シオンは首を振る。
「違う。」
その時だった。
白紙の中央へ、小さな黒い点が現れる。
ぽつり。
まるで墨を一滴落としたように。
その点は、ゆっくりと滲み始める。
一本の線になる。
さらにもう一本。
やがて、それは文字ではなく、一枚の地図を描き始めた。
◇
ガルドが息を呑む。
「地図……か?」
シオンは黙って見つめる。
海。
山。
川。
そして。
これまで旅してきた場所が、小さな印で記されていく。
炎神樹の村。
風神樹の村。
その二つが細い光の線で結ばれた。
さらに。
まだ訪れていない場所が三つ、淡く輝き始める。
アカネが小さく呟く。
「……あと三つ。」
シオンは静かに頷く。
その時。
地図の中央。
誰も訪れたことのない場所へ、最後の印が浮かび上がった。
他の印より、ひと回り大きい。
円を幾重にも重ねたような、不思議な紋様だった。
しかし。
名前は書かれていない。
ただ一言だけ。
すべての流れは、ここへ還る。
部屋が静まり返る。
ナギが腕を組む。
「これが最後の目的地か?」
シオンは答えなかった。
薬箱へそっと手を置く。
鼓動のような温もりが伝わってくる。
炎。
風。
どちらを治した時とも違う。
もっと深く。
もっと大きな命が、静かに呼びかけているようだった。
シオンは地図を見つめ、小さく息をつく。
「……まだ。」
「終わってない。」
その一言に、窓の外から風が吹き込む。
机の上の白紙が、ふわりと揺れた。
まるで世界そのものが、次の旅路を静かに指し示しているかのように。




