第百二十八話
旅立ちの朝。
湖は朝霧をまとい、白く煙っていた。
水面を渡る風はまだ弱い。
それでも昨日より、少しだけ力強い。
社の軒先に吊るされた風鈴が、小さく鳴った。
――リン。
その音に合わせるように、銀色の葉がさらさらと揺れる。
シオンは静かに空を見上げた。
「元気。」
それだけ言って微笑む。
風神樹は、もう大丈夫だ。
◇
村人たちが広場へ集まってくる。
以前なら帳面や木札を手にしていた人々も、今日は違った。
まだ声は弱い。
長く話すことはできない。
それでも、一人ひとりが自分の声で挨拶をしようとしていた。
「お……はよう。」
「おは……よう。」
たどたどしい声が、あちらこちらから聞こえる。
子どもたちは、それだけで嬉しそうに笑っていた。
声が出る。
そんな当たり前のことが、この村では祝福になっていた。
◇
フウカがゆっくり歩いてくる。
その手には、一枚の布が包まれていた。
白い麻布。
丁寧に結ばれている。
両手で差し出す。
シオンは静かに受け取った。
「……?」
布を開く。
中から現れたのは、小さな風車だった。
手のひらに乗るほどの大きさ。
白木で削られ、羽根には銀色の葉が一枚ずつ描かれている。
軸には、細かな文字が彫られていた。
風を忘れないために。
シオンは指先で、その文字をなぞる。
「……きれい。」
フウカが少し照れたように笑う。
そして、ゆっくり息を吸った。
「わ……たし、が……。」
一度止まる。
深く息を吸い直す。
「つ……くり、ました。」
その言葉を聞いた瞬間、村人たちの顔がほころんだ。
フウカが、自分の声で話した。
それだけで十分だった。
「ありがとう。」
シオンは深く頭を下げる。
風車を、大切そうに薬箱へしまった。
◇
湖畔まで来ると、小舟が待っていた。
船長が笑って手を振る。
「風が戻りましたよ。」
帆が、ふわりと膨らむ。
以前とは違う。
穏やかで、優しい風だった。
ナギが笑う。
「追い風だ。」
ガルドは船へ荷物を積み込みながら空を見上げる。
「いい旅になりそうだ。」
アカネは振り返った。
風神樹。
村。
そしてフウカ。
皆が手を振っている。
◇
小舟が岸を離れる。
水面を滑るように進み始めた、その時だった。
サァァ――。
森全体を、一陣の風が吹き抜けた。
銀色の葉が一斉に舞う。
花が揺れる。
草原が波のようにうねる。
風車が勢いよく回り始める。
そして、その風は湖を渡り、小舟まで届いた。
シオンの前髪がふわりと揺れる。
薬箱の蓋が、かすかに鳴った。
カタン。
開いた診療記録には、新しい文字が記されていた。
診療完了
患者名 風神樹
経過 良好
次回診察 季節が巡る頃
シオンは小さく笑い、そっと本を閉じる。
「また来る。」
その一言に応えるように、風がもう一度だけ帆を大きく膨らませた。
船は静かに沖へ向かう。
岸辺は少しずつ遠ざかる。
それでも、風神樹の銀色の葉だけは、いつまでも朝日に輝きながら揺れ続けていた。




