第百二十七話
三日後。
森は少しだけ姿を変えていた。
湖面には、ゆるやかな波紋が広がる。
枝先では銀色の葉が、さらさらと触れ合っている。
止まっていた風車も、時折思い出したように羽根を回していた。
村人たちは、そのたびに足を止めて空を見上げる。
まるで奇跡を見るように。
いや。
奇跡ではない。
長い時間をかけて失われたものが、ようやく帰り始めただけなのだ。
◇
それでも。
村にはまだ静寂が残っていた。
誰も声を出せない。
風は戻った。
なのに言葉だけが戻らない。
ナギがため息をつく。
「やっぱり別の病気だったのか……。」
シオンは首を振る。
「違う。」
風神樹を見上げる。
「まだ。」
「息が浅い。」
アカネが首をかしげた。
「息?」
「人も。」
「走ったあと、すぐ話せない。」
「神樹も同じ。」
傷は閉じ始めたばかり。
何十年も浅い呼吸を続けてきた神樹は、まだ十分に風を生み出せない。
「焦らない。」
シオンはそう言って、村人たちへ微笑んだ。
◇
その日の夕暮れだった。
フウカはいつものように湖畔へ立っていた。
風神樹を見つめる。
両手を胸の前で重ねる。
長年続けてきた祈り。
今日も何も変わらない。
……そう思った、その時だった。
さらり。
一陣の風が、社の鈴を鳴らした。
――リン。
澄み切った音が森へ響く。
フウカは目を見開いた。
その音に応えるように、風神樹の枝がゆっくりと揺れる。
銀色の葉が、陽を受けてきらめいた。
その瞬間。
胸の奥から何かが込み上げる。
フウカは思わず口を開いた。
「……あ……。」
小さな息。
かすれた声。
けれど確かに。
音になった。
自分でも信じられないように喉へ手を当てる。
もう一度。
「……あ。」
今度は、少しだけはっきりと。
社の前にいた老人が振り返る。
目を大きく見開く。
フウカの瞳から、大粒の涙があふれた。
十年以上、失われていた声。
その最初の一音だった。
◇
翌朝。
村中に、小さな変化が広がっていた。
子どもたちが笑う。
「……えへ。」
かすれた声。
畑の老人が咳払いをする。
「……お、おお。」
まだうまく話せない。
けれど、一人、また一人と、声が戻り始める。
シオンは診療帳へ静かに書き込んだ。
経過良好。
回復は順調。
処方──焦らず、季節を待つこと。
ナギがその文字を見て笑う。
「そんな処方もあるんだな。」
シオンも少しだけ笑った。
「薬だけじゃ。」
「治らないから。」
◇
旅立ちの朝。
村人たちは風神樹の前へ集まっていた。
まだ流暢には話せない。
それでも皆、精いっぱい息を吸う。
そして。
「……あ、り……が……と……う。」
途切れ途切れの声が重なる。
美しい歌ではない。
揃った言葉でもない。
それでも、それはこの村で何より美しい響きだった。
フウカも一歩前へ出る。
緊張したように胸へ手を当てる。
そして、シオンを真っ直ぐ見つめた。
「……ありがとう。」
まだ少しかすれている。
けれど、その二文字は風に乗り、森じゅうへ優しく広がっていった。
シオンは照れくさそうに頭をかく。
「どういたしまして。」
その返事に、村人たちから小さな笑い声がこぼれる。
その笑い声は風と混ざり合い、止まっていた風車を軽やかに回した。
白い羽根は朝日に輝きながら、ゆっくりと、そして確かに回り続ける。
シオンは振り返り、もう一度だけ風神樹を見上げた。
銀色の葉が、今度は何百枚も一斉に揺れる。
まるで神樹自身が、静かに見送ってくれているようだった。
風は帰ってきた。
そして、この村にもまた、人々の声と笑顔が少しずつ戻り始めていた。




