第百二十六話
誰も動かなかった。
シオンの掌には、小さな金属片が静かに載っている。
黒く変色したその楔は、長い年月を神樹の中で過ごしてきた証のようだった。
ガルドがそっと息を吐く。
「……抜けたな。」
シオンは頷く。
だが、その表情は晴れない。
「まだ。」
「終わってない。」
傷は開いたままだ。
十年以上、治ることを忘れていた傷。
異物を取り除いただけでは、癒えはしない。
シオンは薬箱から、小さな布袋を取り出した。
中には、淡い緑色の粉末が入っている。
炎神樹の治療にも使った薬ではない。
もっと穏やかな、傷を閉じるための薬だった。
乾燥させた樹皮。
山苔。
朝露を吸った若葉。
それらを細かく挽き、調合した外用薬。
「……冷たくない。」
シオンは粉を指先にのせ、香りを確かめる。
風神樹の気配に合うよう、昨夜遅くまで配合を考え続けた薬だ。
傷を塞ぐのではない。
木が、自分で傷を閉じる力を取り戻すための薬。
それが薬師の役目だった。
◇
薬を傷口へそっと振りかける。
さらり。
淡い緑の粉が、銀色の樹皮へ溶けるようになじんでいく。
透明だった樹液が、少しだけ粘りを増した。
傷口を覆うように、ゆっくりと広がっていく。
シオンは何も言わず、その様子を見守った。
急がない。
薬は命令するものではない。
命を支えるものだから。
◇
その時だった。
――さら。
誰かが絹を撫でたような、小さな音がした。
フウカが顔を上げる。
神樹の一番低い枝。
そこにある銀色の葉が、一枚だけ揺れていた。
本当に、一枚だけ。
右へ。
左へ。
そっと。
眠っていた子どもが、初めて寝返りを打つように。
「……。」
ナギは思わず帽子を握り締める。
ガルドは目を細めたまま、何も言えなかった。
アカネの頬を、一筋の涙が伝う。
風はまだ吹いていない。
それでも、その葉は確かに動いていた。
◇
フウカは震える足で神樹へ近づく。
恐る恐る、その枝へ手を伸ばす。
指先が葉に触れる。
すると。
葉はもう一度、小さく揺れた。
その瞬間。
フウカの長い髪が、一房だけふわりと浮いた。
ほんのわずか。
本当にわずかな風。
それでも。
十年以上、この村では誰も感じることのなかった風だった。
村人たちが空を見上げる。
誰もが同じものを感じていた。
見えないはずの風が、頬を優しく撫でていく。
◇
シオンは傷口を見つめた。
樹液は、もう溢れていない。
傷の縁では、新しい樹皮がゆっくりと盛り上がり始めていた。
「治ってる。」
小さく呟く。
薬が治したのではない。
風神樹自身が、「治ろう」とし始めたのだ。
シオンは静かに笑った。
薬師は命を作れない。
けれど。
命が自分の力を取り戻す、その手伝いはできる。
それだけで十分だった。
◇
湖の水面に、小さな波紋が広がる。
風だった。
最初は目で追えないほど弱く。
やがて草を揺らし、
白い花を震わせ、
止まっていた風車の羽根へ届く。
――コト。
羽根が、ほんの少しだけ動いた。
たった一度。
それだけだった。
それでもシオンは微笑む。
「おかえり。」
その言葉は、風へ向けたものだったのか。
それとも、この村へ戻り始めた日常へ向けたものだったのか。
誰にも分からない。
けれど、その一言は静かな湖を渡り、銀色の葉を優しく揺らしていった。




