第百二十五話
朝靄が湖を包んでいた。
風神樹は静かに立っている。
シオンは幹の傷跡の前で、ゆっくりと深呼吸をした。
薬箱を開く。
並べたのは、薬だけではない。
小さな刃。
細い鑷子。
消毒用の薬草を煮出した湯。
縫合に使う樹皮の糸。
ナギが思わず息をのむ。
「……手術か。」
シオンは小さく頷いた。
「傷を診る。」
「治す。」
◇
まずは患部を清める。
煮沸した薬草湯を布に含ませ、裂け目を丁寧に拭う。
樹皮の隙間から、透明な樹液がゆっくりと滲んでくる。
まるで涙のようだった。
シオンは静かに話しかける。
「少しだけ。」
「痛い。」
「でも。」
「終わる。」
その言葉に応えるように、風神樹の枝先がわずかに震えた。
ほんの一枚。
葉がかすかに揺れる。
フウカが目を見開く。
風は吹いていない。
それでも神樹は、自ら応えたのだ。
◇
ガルドが慎重に傷口を広げるための木製の器具を差し込む。
無理に開かない。
木を傷つけないよう、少しずつ。
少しずつ。
裂け目の奥へ朝日が差し込む。
そのとき。
銀色の樹皮に埋もれるように、細長い金属片が姿を現した。
「……これか。」
ガルドが小さく呟く。
黒く変色した古い金属。
表面には、風を象った紋様が刻まれていた。
フウカが震える指で、その紋様を指差す。
老人は帳面へ急いで書く。
初代の巫女が打ち込んだ『護風の楔』。
雷裂けを広げないための支え。
ガルドが静かに目を閉じる。
「昔は必要だったんだな。」
老人は頷く。
あの日。
雷に裂かれた神樹を前に、村人たちは必死だった。
少しでも命をつなぎたい。
その一心で、この楔を打ち込んだ。
誰も未来で害になるとは思わなかった。
◇
シオンは鑷子を構える。
深く息を吸う。
薬師の仕事は、焦らないこと。
患者の命を預かるときほど、手は静かでなければならない。
「ガルド。」
「支えて。」
「ああ。」
ガルドが幹をそっと支える。
ナギは薬草湯を準備する。
アカネは布を差し出す。
フウカは祈るように両手を胸の前で組んだ。
皆の力が一つになる。
シオンは金属片をしっかりと挟む。
「……。」
ゆっくり。
ほんの少しずつ。
力を加える。
ギ……。
小さな音がした。
神樹が震える。
透明な樹液が一筋流れる。
「もう少し。」
シオンは呼吸を整え、さらに慎重に引く。
そして――
コトン。
掌へ、小さな金属片が落ちた。
誰も声を上げない。
その代わりに。
森の奥で。
――サラ……。
何かが揺れた。
ほんの一枝だけ。
風神樹の葉が、自らの意思でそっと揺れたのだった。




