第百二十四話
シオンは拳ほどの樹液の塊を、もう一度じっと見つめた。
固くなった表面を指先でなぞる。
静かに首を振った。
「違う。」
ナギが尋ねる。
「何がだ?」
「これ。」
「原因じゃない。」
その一言に、ガルドが目を丸くする。
「でも、これが風路を塞いでるんだろ?」
「うん。」
「でも。」
「どうして流れ続ける?」
誰も答えられなかった。
シオンは静かに風神樹を見上げる。
「傷が。」
「治ってない。」
アカネが息を呑む。
「十年以上も……?」
シオンは頷く。
普通の木なら、もっと早く傷口は塞がる。
まして世界を支える神樹だ。
こんなに長く樹液を流し続けることなど、本来はあり得ない。
つまり。
何かが、治癒を妨げている。
◇
シオンは風神樹の幹へ歩み寄る。
雷が落ちたという場所は、高い位置にあった。
銀色の樹皮が裂け、一本の筋が空へ向かって伸びている。
遠くから見れば、古い傷跡にしか見えない。
しかし近づくと違った。
「……。」
シオンは裂け目へそっと手を当てる。
冷たい。
いや。
冷たすぎる。
まるで冬の氷へ触れたような冷気が伝わってくる。
炎神樹では熱を感じた。
なのに風神樹では、その逆だった。
「冷えてる。」
ガルドが驚く。
「木が冷えるなんてあるのか?」
シオンは答えなかった。
代わりに薬箱を開く。
世界樹の診察記録が、ゆっくりと頁をめくる。
文字が一つずつ浮かぶ。
創傷。
さらに続く。
治癒遅延。
シオンは静かに読み進める。
最後の一文で、その目がわずかに見開かれた。
患部に異物反応を確認。
ナギが身を乗り出す。
「異物?」
シオンは裂け目を見つめたまま、小さく頷く。
「中に。」
「何かある。」
◇
フウカが驚いたように目を見開く。
老人も帳面を落としそうになる。
この十年間。
誰も傷の中を調べようとは思わなかった。
傷は雷によるもの。
そう信じて疑わなかったからだ。
シオンは傷口の縁へ耳を近づけた。
目を閉じる。
呼吸を整える。
静かに聴く。
やがて。
微かな音が聞こえた。
――カン。
乾いた音。
木の音ではない。
石でもない。
もう一度。
――カン。
金属が触れ合うような、小さな響き。
シオンはゆっくり目を開いた。
「雷じゃない。」
「え?」
ナギが思わず聞き返す。
シオンは傷跡を見つめながら、静かに言った。
「まだ。」
「刺さってる。」
森に沈黙が落ちる。
雷の傷だと思われていた裂け目。
その奥には今もなお、神樹を傷つけ続ける何かが残されていたのだった。




