第百二十一話
その日の夕方。
シオンは診療道具を片付けると、老人へ向き直った。
「お願い。」
老人もフウカも静かにシオンを見る。
「少し。」
「ここで暮らしたい。」
老人は目を丸くした。
ナギも思わず振り返る。
「……暮らす?」
シオンは頷く。
「病気は。」
「生活の中にある。」
短い言葉だった。
けれど、その意味は重かった。
「一日見ただけじゃ。」
「分からない。」
「朝。」
「昼。」
「夜。」
「みんながどう暮らしているか。」
「それを知りたい。」
薬師見習いだった頃。
師は何度も言っていた。
薬は患者ではなく、患者の暮らしに合わせて作れ。
同じ熱でも。
井戸水を飲める村と。
水を運ばなければならない山村では。
必要な薬も、治し方も違う。
シオンはその教えを、ずっと忘れていなかった。
◇
老人はしばらく考えると、小さく微笑んだ。
そして帳面へ書く。
歓迎します。
空いている家があります。
ナギが笑う。
「しばらく世話になるか。」
ガルドは荷物を肩へ担ぎ直した。
「まずは寝床だな。」
アカネも頷く。
「旅ばかりだったし、少し落ち着けそう。」
◇
案内された家は、小さな木造の家だった。
窓は大きく、湖からの景色がよく見える。
炉には灰が残り、誰かが暮らしていた温もりがまだ残っている。
けれど。
壁際には、一枚の風車が立て掛けられていた。
木で作られた、小さな風車。
シオンは手に取る。
外へ出る。
空へ掲げる。
……動かない。
一枚も。
カタリとも。
回らなかった。
ナギが苦く笑う。
「風車が回らない村、か。」
シオンは風車を見つめる。
新品ではない。
羽根の角は丸く擦り減っている。
昔は毎日のように回っていた証拠だった。
「止まったのは。」
「最近じゃない。」
アカネが頷く。
「何年も前……。」
村全体が、風のない暮らしに慣れてしまっている。
それが何より胸を締めつけた。
◇
夜。
夕食の席。
老人の家には村人たちも集まり、長い机へ料理が並べられた。
焼いた川魚。
木の実を混ぜたパン。
きのこの煮込み。
山菜の和え物。
どれも素朴だが、丁寧に作られている。
食事が始まる。
誰も話さない。
食器の触れ合う音だけが部屋へ響く。
コト……
カチャ……
静かだった。
あまりにも静かだった。
それでも。
誰かがお皿を差し出せば、隣の人が自然に受け取る。
パンが足りなくなれば、子どもが走って運ぶ。
笑顔もある。
優しさもある。
言葉だけがない。
シオンはその光景を静かに見つめていた。
やがて、小さな女の子が立ち上がる。
五歳くらいだろうか。
両手でコップを持ち、シオンの前へ来る。
そして、にっこり笑って差し出した。
水だった。
「……ありがとう。」
シオンが受け取る。
女の子は嬉しそうに笑う。
けれど、その口からは何も聞こえない。
シオンは水を一口飲む。
冷たい。
澄んでいる。
そして、女の子へ優しく微笑み返した。
「おいしい。」
その一言で、女の子の笑顔は花が咲くように明るくなった。
部屋のあちこちで、村人たちがその様子を見つめている。
誰も声は出せない。
けれど、その瞳には同じ願いが宿っていた。
――もう一度、この村に笑い声を。
シオンは静かにコップを置く。
薬師として。
この村で最初に診るべきものが、ようやく見えてきた気がした。




