第百十話
翌朝。
朝日が森を淡く照らしていた。
それでも風は吹かない。
葉は一枚も揺れず、湖面は鏡のような静けさを保っている。
シオンは昨日採取した灰色の粉を、小さな白い皿へ移した。
薬箱から細い竹べらを取り出し、ゆっくりと崩していく。
さらさらと細かく砕ける。
「土じゃない。」
ナギが覗き込む。
「分かるのか?」
シオンは頷いた。
「土なら。」
「匂いが違う。」
粉を少し指先へ乗せ、鼻へ近づける。
乾いた匂い。
石でも木でもない。
その奥に、ごくわずかな苦みを含んだ香りが混じっていた。
「……薬草?」
アカネが驚く。
「これが?」
シオンは小さく首を横へ振る。
「違う。」
「薬草だった。」
皆が顔を見合わせる。
「だった?」
シオンは薬包紙を開き直し、もう一度粉を見つめる。
「ずっと昔。」
「何かを混ぜてる。」
薬師は匂いで分かる。
薬草は朽ちても、微かな香りを残すことがある。
この粉にも、その名残があった。
◇
その頃。
フウカは社の奥から、一つの木箱を抱えてきた。
古びた箱だった。
蓋には風を模した紋様が彫られている。
シオンの前へそっと置き、静かに蓋を開けた。
中には、何冊もの古い帳面が納められていた。
村の記録だった。
老人が一冊を開き、指である頁を示す。
そこには、今とは違う風景が描かれていた。
風神樹の周囲では、人々が笑い、子どもたちが走り回っている。
風車が勢いよく回り、木々は大きく揺れていた。
そして文章には、こう記されていた。
風祭りの日。
神樹の息吹に感謝を捧げる。
ページをめくる。
翌年。
その翌年。
変わらない笑顔。
変わらない祭り。
さらにめくる。
ある年を境に、記録が止まる。
絵もない。
祭りもない。
代わりに、震える文字が残されていた。
風が弱い。
次の頁。
今年も祭りは中止。
さらに次。
子どもの声が出なくなった。
部屋に沈黙が落ちる。
老人はゆっくりと最後の頁を開いた。
巫女も声を失った。
私たちは待つ。
風が帰る日を。
それが、この帳面の最後の文字だった。
◇
シオンは帳面を閉じる。
静かに考える。
「急な病気じゃない。」
ナギも頷く。
「少しずつ悪くなっていったんだな。」
「うん。」
炎神樹は、短期間で侵食された。
だが、この森は違う。
十年。
二十年。
もっと長い時間をかけて、少しずつ呼吸を失っていった。
だから誰も気づかなかった。
毎日ほんの少しずつ失われるものは、人は「当たり前」だと思ってしまう。
シオンは風神樹を見上げる。
銀色の葉は、今日も静かだった。
しかし。
それは病が進んだからではない。
長い年月をかけて積み重なった、小さな異変の結果なのだ。
薬師が治すべきものは、一つの傷だけではない。
時間が積み重ねた病もまた、診なければならない。
シオンはそっと薬箱へ手を置いた。
「まずは。」
「原因を全部見つけよう。」
その言葉に、ナギたちは静かに頷いた。
治療はまだ始まっていない。
けれど、本当の診察は今、始まったばかりだった。




