第百十九話
その日の午後。
シオンは風神樹の周りをゆっくり歩いていた。
一歩。
また一歩。
急がない。
病を診るように。
一本の木を診るように。
世界そのものを診るように。
ナギが後ろから尋ねる。
「何を探してる?」
「通り道。」
「通り道?」
シオンは幹へ視線を向けた。
「血は。」
「血管を流れる。」
「風も。」
「流れる。」
ガルドが腕を組む。
「風にも道があるってことか。」
シオンは静かに頷いた。
◇
神樹の周囲には、古い石畳が円を描くように続いていた。
苔むした石。
倒れた石柱。
半ば土へ埋もれた石灯籠。
かつては人々が祈りを捧げる場所だったのだろう。
しかし今は、誰も手入れをしていない。
いや。
手入れをする者がいないわけではない。
落ち葉は掃かれている。
草も刈られている。
それなのに、どこか寂しい。
まるで長い時間、この場所だけが呼吸を忘れてしまったようだった。
シオンは石畳へしゃがみ込む。
指先で苔を払い、石の継ぎ目をなぞる。
「……あ。」
小さく声を漏らした。
ナギたちも近寄る。
「どうした?」
石と石の間。
幅にして指一本ほどの隙間に、小さな穴が開いていた。
そして、その穴は一本ではない。
等間隔に、ぐるりと神樹を囲むように並んでいる。
ガルドが目を細める。
「排水用か?」
シオンは首を振る。
「違う。」
「風。」
「風?」
シオンは落ち葉を一枚拾う。
穴の前へ置く。
葉は動かない。
次に、穴へ細い草を差し込んでみる。
草の穂先も揺れない。
けれど。
シオンは耳を近づけた。
しばらく目を閉じる。
そして、小さく呟く。
「……詰まってる。」
◇
ガルドは腰の道具袋から細い金属棒を取り出した。
「これで探ってみる。」
慎重に穴へ差し込む。
数寸ほど入ったところで、棒が止まった。
「硬いな。」
石ではない。
木でもない。
何かが奥で塞いでいる。
ガルドは棒を引き抜く。
先端には、灰色の粉のようなものが付着していた。
シオンはそれを受け取り、指先でそっと擦る。
さらりと崩れる。
土ではない。
灰でもない。
「……診療所で見たことがある。」
ナギが驚く。
「知ってるのか?」
シオンは少し考え込んだ。
「病気じゃない。」
「でも。」
「健康でもない。」
その表現に、アカネが首を傾げる。
「それって……どういうこと?」
シオンは粉を薬包紙へ包み、大切に薬箱へしまった。
「調べる。」
「決めつけない。」
薬師は、見た目だけで診断しない。
確かな証拠が集まるまで、答えを急がない。
それが師から教わった教えだった。
◇
夕暮れ。
風神樹は、変わらず静かに立っていた。
だが、その根元には。
誰も気づかなかった小さな異変があった。
シオンが落ち葉をどけた場所。
石畳の隙間から、ほんのわずかに。
「スッ……」
細い風が吹き抜けた。
それは一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
風神樹は、まだ生きている。
そして。
ほんの少しだけ、自ら呼吸を取り戻そうとしていた。




