第百十八話
シオンは湖畔へしゃがみ込んだ。
鏡のような湖面へ、そっと手を伸ばす。
指先が水へ触れる。
ひやりと冷たい。
けれど、その冷たさは不自然ではない。
山から流れる湧き水なら、このくらいの温度だろう。
「水は元気。」
ぽつりと呟く。
ナギが辺りを見回した。
「木も枯れてねぇ。」
ガルドも幹へ手を当てる。
「虫食いもねぇな。」
アカネは空を見上げる。
「空も晴れてる……。」
誰が見ても、美しい森だった。
だからこそ分からない。
なぜ風だけが失われたのか。
◇
シオンは薬箱を開く。
取り出したのは、小さな木製の筒だった。
片方は細く、片方は丸く広がっている。
ナギが首を傾げる。
「それは?」
「聴診器。」
ガルドが目を丸くする。
「そんな道具まであるのか。」
シオンは頷いた。
「音を聴く。」
木で作られた素朴な聴診器。
王都の薬師たちが使っていたものを、ガルドが改良した一品だ。
金属ではなく木で作られているため、この世界の技術にもよく馴染んでいる。
シオンはゆっくりと風神樹へ近付いた。
銀色の幹へ、そっと丸い方を当てる。
耳を澄ませる。
静かだった。
あまりにも静かだった。
炎神樹では、大地を流れる炎脈の鼓動が聞こえた。
ドクン。
ドクン。
命の音があった。
しかし。
風神樹からは。
何も聞こえない。
シオンは眉を寄せる。
「……。」
ナギが心配そうに尋ねる。
「どうだ?」
シオンは答えなかった。
もう一度、位置を変える。
幹。
枝。
根元。
何度も聴く。
そして。
ようやく聴こえた。
――……
かすかに。
本当にかすかに。
何かが流れる音。
シオンは目を開いた。
「いた。」
「え?」
「風。」
アカネが思わず聞き返す。
「風が……中に?」
シオンは頷く。
「流れてる。」
「でも。」
「出られない。」
全員が風神樹を見上げた。
葉は相変わらず一枚も揺れない。
けれど、その内側では。
確かに風は生きていた。
ただ、閉じ込められている。
◇
そのときだった。
社の縁側に座っていたフウカが、ふいに立ち上がる。
ゆっくりと湖へ歩き出した。
「フウカ!」
アカネが声を掛ける。
少女は振り返らない。
湖のほとりまで行くと、静かに両手を差し出した。
風を受け止めるような仕草。
けれど。
そこには何もない。
それでもフウカは、悲しそうに目を閉じた。
シオンはその姿を見つめる。
薬では治せない病もある。
けれど。
薬師だから治せない、と決めることもしない。
シオンは静かにフウカの隣へ立った。
そして同じように、両手を空へ向ける。
何も感じない。
……はずだった。
その瞬間。
指先を、ほんの一筋だけ何かが撫でた。
髪の毛一本ほどの、かすかな風。
それはすぐに消えた。
だが、シオンは確かに感じた。
「まだいる。」
フウカが初めてシオンを見る。
大きな翠色の瞳が、わずかに揺れた。
その瞳は、まるで問いかけているようだった。
――本当に、聞こえたのですか。
シオンは静かに微笑み、小さく頷いた。
「迎えに行こう。」
その言葉に、フウカの瞳へ初めて、小さな希望の光が宿った。




