第百七話
少年の後を追い、森の奥へ進む。
踏み固められた細い道は、やがて苔むした石畳へと変わった。
その両側には、白い花が咲いている。
炎神樹の花とは違う。
花びらは細く、風車のような形をしていた。
けれど。
一輪たりとも揺れていない。
シオンは立ち止まり、花へそっと触れた。
冷たい。
朝露ではない。
まるで長い間、日陰に置かれていた石のような冷たさだった。
「風がないから……」
ぽつりと呟く。
花は風を待っている。
そんなふうに見えた。
「シオン。」
アカネが前を指さす。
木々の向こうが、淡く光っていた。
◇
森が開ける。
そこには、大きな湖があった。
水面は鏡のように静かだ。
波紋一つない。
湖の中央、小さな島がある。
そして島には。
一本の巨木。
銀色の幹。
空色の葉。
朝日に照らされるたび、葉は硝子細工のようにきらめいていた。
「……きれい。」
ホタルなら、きっとそう言っただろう。
アカネも息を呑む。
「これが……」
「風神樹。」
炎神樹のような圧倒的な力強さはない。
ただ静かに、そこに立っている。
まるで、世界の風景そのもののようだった。
しかし。
シオンは首をかしげる。
「おかしい。」
ナギも眉を寄せる。
「何がだ?」
「葉。」
「動かない。」
全員が見上げる。
銀色の枝には、何千枚もの葉が茂っている。
それなのに。
一枚も揺れていなかった。
風を司る神樹。
その葉が、風を知らないように静止している。
その光景は、美しいからこそ異様だった。
◇
湖畔には、小さな社が建っていた。
少年はそこまで駆け寄ると、戸を開ける。
中には、一人の少女がいた。
十五歳ほどだろうか。
薄い緑色の髪を肩まで伸ばし、白い巫女装束に身を包んでいる。
風神樹の巫女だった。
少女は神樹を見つめたまま動かない。
シオンたちが入ってきても、振り向くことさえしなかった。
老人が静かに帳面へ書く。
風巫女・フウカ。
三年前から、一言も話しません。
シオンはゆっくり少女の前へしゃがみ込む。
「こんにちは。」
返事はない。
それでも、シオンは急がない。
薬師は、患者の時間を奪わない。
静かに隣へ座る。
二人で湖を見つめる。
しばらくして。
フウカの指先が、わずかに震えた。
それだけだった。
けれどシオンは、その小さな変化を見逃さなかった。
「怖かった?」
静かな問い。
フウカの肩が、小さく揺れる。
言葉はない。
涙もない。
それでも。
その震えだけで十分だった。
シオンは風神樹を見上げる。
炎神樹は、怒りを抱えていた。
けれど、この神樹は違う。
怒っているのではない。
ただ。
長い間、何かを失ってしまったように見えた。
そのとき、薬箱の中で世界樹の診察記録が静かに開く。
しかし今回は、病名は現れなかった。
代わりに浮かんだのは、たった一つの問いだった。
風は、どこへ消えましたか。
シオンはその文字を見つめる。
そして小さく頷いた。
「探そう。」
病気ではなく。
風そのものを診るために。




