第百六話
老人は静かに歩き出した。
「ついてきて」と言うように、一度だけ振り返る。
シオンたちは顔を見合わせ、その後を追った。
村は小さかった。
木造の家々の軒先には、乾燥させた薬草や野菜が吊るされている。
畑には麦が風もないのに真っすぐ立ち、井戸の周りには色とりどりの花が咲いていた。
暮らしはある。
荒れてはいない。
それなのに。
聞こえるのは、足音だけだった。
コン、コン。
木靴が石畳を叩く音。
カサリ。
洗濯物をたたむ布の音。
コトン。
器を置く音。
誰も話さない。
いや。
話せない。
それでも人々は笑い、うなずき、手を振り、互いを助け合っている。
言葉だけが、この村から消えていた。
◇
村の中央にある集会所へ案内されると、老人は机の上へ一冊の古い帳面を置いた。
ゆっくりと開く。
そこには、何人もの筆跡が重なっていた。
旅の薬師様へ。
ようこそ、風鳴の村へ。
その下へ、新しい文字が書き加えられる。
老人が筆を取っていた。
申し訳ありません。
私たちは声を失っています。
ナギが思わず息を呑む。
「……みんなか。」
老人は静かに頷く。
子どもも。
大人も。
老人も。
全員です。
シオンは帳面ではなく、老人の手を見ていた。
細くなった指。
硬くなった掌。
震えはない。
病気で衰弱している様子もない。
「診せてください。」
老人は素直に頷いた。
シオンは脈を診る。
ゆっくり。
一定のリズム。
異常はない。
次に瞳を見る。
光はある。
熱もない。
喉を診る。
赤みも腫れもない。
首のリンパも腫れていない。
ナギが尋ねる。
「どうだ?」
シオンは首を横に振った。
「病気じゃない。」
その一言に、部屋の空気が止まる。
アカネが驚く。
「でも、声が……。」
「出ない。」
「なのに病気じゃない?」
シオンは静かに考え込む。
症状はある。
原因がない。
それは薬師として、一番難しい患者だった。
◇
その時だった。
集会所の扉が勢いよく開く。
一人の少年が飛び込んできた。
十二、三歳だろうか。
肩で息をし、必死に何かを伝えようとしている。
「あ……!」
口を開く。
けれど。
声は出ない。
少年は震える手で外を指差した。
何度も。
何度も。
涙を浮かべながら。
老人の顔色が変わる。
急いで帳面を引き寄せる。
筆を走らせる。
そして、シオンへ向けた。
風神樹です。
また倒れました。
シオンは立ち上がる。
薬箱を背負う。
その瞳には焦りはなかった。
あるのは、患者のもとへ向かう薬師の静かな決意だけ。
「案内して。」
少年は大きく頷く。
そして森の奥へ駆け出した。
シオンたちも、その後を追う。
静まり返った森の中を。
足音だけが、規則正しく響いていた。




