第百五話
小舟が岸へ着く。
船底が砂浜へ触れ、小さく音を立てた。
シオンは最初に船を降りる。
靴の下で、白い砂がさらりと鳴った。
潮の香りはする。
海も穏やかだ。
けれど。
森だけが静かだった。
「……変だな。」
ナギが辺りを見回す。
木々は青々と茂っている。
枝も葉も枯れてはいない。
なのに、一枚も揺れていない。
風が吹いていないのだ。
シオンは一本の草の前でしゃがみ込む。
葉に触れる。
みずみずしい。
病気ではない。
「元気。」
ぽつりと呟く。
ガルドが苦笑する。
「草は元気か。」
「うん。」
「森は違う。」
その言葉に、皆が顔を上げた。
森は生きている。
なのに、呼吸だけを止めているようだった。
◇
細い山道を歩く。
木漏れ日が地面へ丸い光を落としている。
美しい森だった。
花も咲いている。
小川の水も澄んでいる。
それでも。
鳥がいない。
虫も鳴かない。
リス一匹、姿を見せない。
アカネが小さく息をつく。
「ここまで静かな森は初めて。」
ナギも頷く。
「獣の気配が全然ねぇ。」
薬師として歩くシオンも、何度か立ち止まる。
土を触る。
苔を観察する。
花の香りを確かめる。
どれも異常はない。
それなのに。
胸の奥だけがざわつく。
薬箱も、今日は静かなままだった。
◇
しばらく歩くと、森が開けた。
小さな村。
木造の家が十数軒。
畑には野菜が育ち、井戸もある。
暮らしの匂いが残っていた。
煙突からは煙も上がっている。
「人がいる。」
アカネがほっとしたように言う。
ちょうど一人の老人が畑仕事をしていた。
ナギが手を振る。
「こんにちは!」
老人は顔を上げる。
こちらを見る。
そして。
軽く会釈だけして、また鍬を動かし始めた。
「……。」
返事がない。
ナギは首を傾げる。
「聞こえなかったか?」
もう一度声を掛ける。
「旅の者なんだが、この村の長に会えないか?」
老人はゆっくり近付いてくる。
優しそうな顔だった。
怒っているわけでもない。
恐れているわけでもない。
それでも。
口を開かない。
代わりに、小さな木札を差し出した。
そこには、墨で一言だけ書かれていた。
『ようこそ』
ナギは木札と老人を交互に見る。
「……しゃべれないのか?」
老人は静かに頷いた。
その様子を見ていたシオンは、老人の喉元へ視線を向ける。
赤く腫れているわけではない。
呼吸も正常。
咳もない。
それでも。
老人は声を失っていた。
シオンは薬箱を開く。
世界樹の診察記録が、ゆっくりとページをめくる。
そして、新しい文字が浮かんだ。
患者、複数。
共通症状──「声を失う」。
シオンは木札を持つ老人へ目を向けた。
老人は穏やかに微笑んでいる。
けれど、その笑顔の奥には。
「助けてほしい」
そんな言葉にならない願いが、静かに宿っていた。




