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辺境薬師の街づくり  作者: 灯野 しおん
第6章 「灰降る国」

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第百四話

船は順調に北東へ進んでいた。


 追い風を受けた白い帆が、気持ちよさそうに膨らむ。


 船首に立つシオンの髪を、潮風が優しく揺らした。


 海は穏やかだった。


 炎神樹を覆っていた重苦しい空気が嘘のように、青い空がどこまでも続いている。


「いい天気だな。」


 ナギが大きく伸びをする。


 船縁に腰掛けたガルドは、海を眺めながら笑った。


「嵐よりゃ百倍いい。」


 その横では、アカネが地図を広げていた。


「この辺りを越えると、大きな入江があるはず。」


 船長も頷く。


「そこから先は森ですよ。」


「風鳴の森。」


 その名前を聞いた瞬間。


 薬箱が小さく震えた。


 カタ……


 シオンはそっと蓋を押さえる。


「起きた。」


「またか?」


 ナギが苦笑する。


 最近では、薬箱が震えるたびに新しい患者が見つかる。


 まるで薬箱自身が道案内をしているようだった。


 世界樹の診察記録がゆっくり開く。


 文字が浮かぶ。


患者名 風神樹


症状 沈黙


 シオンは首を傾げた。


「沈黙?」


 ページが続く。


風が止まれば


言葉も止まる。


 さらに文字が現れる。


原因不明。


 シオンは静かに本を閉じた。


「珍しい。」


「診断できないのか。」


 ナギも表情を引き締める。


 炎神樹の時は「虚無侵食」と診断が出ていた。


 今回は違う。


 世界樹でさえ原因が分からない。


 その時だった。


 船長が前方を指差す。


「見えてきました!」


 水平線の向こう。


 深い緑が海まで迫っている。


 巨大な森だった。


 しかし。


「……静かだ。」


 ガルドが眉をひそめる。


 鳥の声がしない。


 波の音だけが響いている。


 普通なら聞こえるはずの。


 木々を渡る風の音もない。


 アカネが耳を澄ませた。


「風が……ない。」


 不自然だった。


 海には風が吹いている。


 なのに。


 森へ近づくほど。


 風だけが消えていく。


 帆がゆっくりとしぼみ始めた。


 船が減速する。


 船長が驚いた顔で空を見上げた。


「こんなことは初めてです……。」


 その瞬間。


 森の奥から。


 かすかな鈴の音が聞こえた。


 ――リン……


 誰かが呼んでいる。


 そんな音だった。


 シオンは薬箱を抱き寄せる。


 診察記録が最後の一文を映し出した。


患者は、声を失っている。


 シオンは森を見つめ、小さく頷いた。


「迎えに行こう。」


 その一言とともに、小舟が静かな入り江へと滑り込んでいった。

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