第百三話
翌朝。
ルーメンの港には、潮の香りを含んだ風が吹いていた。
朝日に照らされた海は穏やかで、まるで何事もなかったかのように静かだった。
しかし港には、町中の人々が集まっている。
「シオンさん!」
「本当に行っちゃうの?」
子どもたちが駆け寄る。
シオンはしゃがみ込み、一人ひとりの頭をそっと撫でた。
「うん」
「でも」
「また来る」
その短い言葉に、子どもたちは安心したように笑う。
診療所の前では、ガルドが大きな木箱を荷車へ積み込んでいた。
「乾燥薬草は十分だ。」
「保存食も入れた。」
「それから、鍋まで入れといたぞ!」
「……鍋?」
ナギが呆れたように箱を覗き込む。
「旅に鍋はいらんだろ。」
「何言ってやがる。」
ガルドは胸を張った。
「腹が減ったら飯を食う。」
「飯を作るには鍋がいる。」
「つまり鍋は命だ。」
ナギは額を押さえる。
「……反論できねぇ。」
近くで聞いていたシオンは、小さく頷いた。
「鍋」
「大事」
ガルドが嬉しそうに笑う。
「ほら見ろ!」
市場に笑い声が広がった。
◇
少し離れた桟橋では、アカネが船員たちと話していた。
「風向きは?」
「今日は順風ですよ。」
「昼には岬を越えられます。」
アカネは海を見渡す。
青く澄んだ水平線。
その向こうに、新たな土地がある。
炎神樹を救った今。
次に助けを求めているのは風神樹。
胸の奥には不安もあった。
だが、それ以上に。
守りたいものが増えた。
◇
「シオン。」
静かな声がした。
振り向くと、ヴェルグが立っていた。
黒い外套ではなく、旅人が着るような落ち着いた灰色の服をまとっている。
「似合う。」
シオンがそう言うと、ヴェルグは少し照れくさそうに笑った。
「町の仕立て屋が作ってくれた。」
「代金はいらない、と。」
「どうしてだろうね。」
シオンは答える。
「きっと」
「前を向いた人だから。」
ヴェルグは目を伏せた。
千年前、自分は人を救う薬師だった。
その後、多くの過ちを重ねた。
失ったものは戻らない。
それでも。
これから誰かを救うことはできるかもしれない。
その希望だけが、今の自分を支えていた。
◇
「おーい!」
港の入り口から、元気な声が響く。
ホタルだった。
息を切らしながら駆けてくる。
「間に合った!」
両手には、小さな布袋を抱えている。
「これ!」
シオンへ差し出した。
袋を開けると、中には白い花の種が入っていた。
「火山の庭のお花。」
「旅の先でも咲くかなって。」
シオンは袋を両手で受け取る。
指先で種を一粒つまむ。
小さく、温かな命。
「ありがとう。」
ホタルは照れたように笑った。
「約束だから。」
「世界中に、お花を増やすって。」
シオンも微笑む。
「うん。」
「約束。」
その時だった。
港へ一陣の風が吹く。
潮の香りとは違う。
澄んだ、どこか懐かしい風。
シオンの薬箱が、かすかに震えた。
世界樹の診察記録が、ひとりでに一ページ開く。
そこに現れたのは、一枚の地図。
ルーメンから北東へ。
深い森の中に、一つだけ光る印があった。
印の横には、短い文字。
『風鳴の森』
そして、その下に。
『患者、待機中。』
シオンは静かに薬箱を閉じた。
「行こう。」
その一言に、仲間たちが頷く。
船がゆっくりと岸を離れる。
朝日を受けて白い帆がふくらみ、港町ルーメンは少しずつ遠ざかっていく。
岸壁ではホタルやアカネ、町の人々が大きく手を振っていた。
火山の庭に咲いた一輪の白い花も、海風に揺れながら、旅立つ薬師たちを静かに見送っていた。




