第百十二話
火山の町へ、穏やかな夕暮れが降りていた。
橙色に染まった空の下では、今日も市場の片付けが始まっている。
「また明日な!」
「魚、ありがとう!」
「パンは全部売れたよ!」
そんな何気ない挨拶が町のあちこちで交わされる。
三日前まで聞こえなかった声だった。
シオンは診療所の前に腰を下ろし、その景色を静かに眺めていた。
膝の上には、いつもの薬箱。
ナギは井戸から水を運びながら笑う。
「ぼーっとするなんて珍しいな。」
シオンは少し考えて答えた。
「みんな元気。」
「仕事が少ない。」
「薬師としては最高じゃないか。」
ナギは肩を揺らして笑う。
「確かにな。」
病人が少ない。
それは薬師にとって、一番うれしいことだった。
その時だった。
薬箱が、小さく震えた。
――カタリ。
シオンはそっと蓋を開ける。
世界樹の診察記録が、ひとりでに開いていく。
ページの間から、一枚の葉が舞い上がった。
淡い翠色。
今まで見たことのない葉だった。
「新しい葉……?」
ナギも覗き込む。
葉は宙に浮かんだまま、静かに文字を描き始めた。
光る文字は、手紙のようにゆっくりと並んでいく。
薬師シオンへ
それは初めて見る書き出しだった。
今までは診断や記録だけだった世界樹が、初めて誰かに語りかけている。
シオンは黙って続きを見つめた。
炎神樹の治療に感謝する。
命の灯は、再び燃え始めた。
葉がやさしく揺れる。
だが、世界にはなお四つの病が残る。
ナギの表情が引き締まる。
シオンも静かに読み進める。
急ぐ必要はない。
傷ついた者は、休むことも治療である。
その一文に、シオンは小さく頷いた。
「うん。」
まるで、自分のことまで見透かされているようだった。
ページはさらに光る。
しかし、風はすでに次の悲鳴を運んでいる。
その瞬間。
診療所の窓辺へ、一羽の小鳥が舞い降りた。
青い羽を持つ、小さな鳥。
見たことのない種類だった。
鳥は薬箱の縁へちょこんと止まると、小さく鳴く。
――チチッ。
その鳴き声と同時に、葉へ新しい文字が浮かぶ。
風神樹より救援要請。
部屋の空気が静まり返る。
ナギが低く呟く。
「次は……風か。」
シオンは窓の外を見る。
夕焼けに染まる空。
穏やかな風が町を吹き抜けていく。
その風の中に。
ほんのわずかだが、何かが混じっていた。
冷たい。
泣き声のような風。
シオンはそっと立ち上がる。
「まだ。」
小さく呟く。
「泣いてる。」
その言葉を聞いたナギは、何も言わず頷いた。
薬師の旅は終わっていない。
けれど今回は、追われる旅ではない。
助けを求める声に応えるための旅。
その違いが、シオンの背中を少しだけ軽くしていた。




