第百七話
最後のページ。
世界樹の診察記録が。
静かに閉じられる。
パタン。
その音が。
炎脈に響いた。
千年前の景色は。
ゆっくりと消えていく。
花畑。
青い空。
若きヴェルグ。
名を失った巫女。
すべてが光となり。
現在へ戻ってきた。
誰も。
すぐには言葉を発せなかった。
長い沈黙。
その静けさを破ったのは。
ホタルだった。
「ねぇ」
涙をぬぐいながら。
小さく尋ねる。
「その人」
「まだ生きてるの?」
ヴェルグは目を閉じる。
「分からない」
「名前が消えた日から」
「誰も彼女を覚えていない」
「私だけが」
「何かを失ったことだけ覚えていた」
シオンは静かに聞いていた。
「だから探してた」
ヴェルグは頷く。
「千年間」
「ずっと」
「何を探しているのかも分からないまま」
世界を巡った。
遺跡を訪ね。
神殿を巡り。
神樹の根元を掘り。
古い文献を読み続けた。
それでも。
見つからなかった。
名前がない。
だから。
誰にも辿り着けない。
その時だった。
シオンの薬箱が。
カタン。
小さく鳴った。
全員が振り向く。
薬箱が。
ゆっくりと開いていく。
誰も触れていない。
翠風の葉。
海鳴りの葉。
そして。
まだ見つかっていない。
炎核の葉。
三枚が宙へ浮かぶ。
いや。
違う。
炎核の葉は。
まだ存在しない。
代わりに。
薬箱の底から。
古びた一粒の種が現れた。
黄金色。
けれど。
今にも消えそうなほど小さい。
世界樹の診察記録が光る。
新しい文字。
『始まりの種』
炎竜が息を呑む。
『まさか……』
『まだ残っていたとは』
シオンは種を手に取る。
温かい。
鼓動が伝わる。
ドクン。
ドクン。
生きている。
アカネが驚いた声を上げる。
「世界樹の種?」
炎竜は静かに首を振る。
『違う』
『これは』
『六本目の神樹になる種だ』
静寂。
誰も動けない。
五本ではない。
六本目。
そんなものは。
歴史に存在しない。
ゼノですら目を見開く。
「六本目……?」
世界樹の診察記録には。
最後の一文が浮かび上がる。
『五本の神樹は世界を守る。』
『六本目の神樹は、人の心を守る。』
シオンはその文字を見つめる。
そして。
小さく首を傾げた。
「薬師みたい」
炎竜は微笑んだ。
『だから』
『薬箱がお前を選んだのだ』
シオンは静かに首を横に振る。
「違う」
皆がシオンを見る。
シオンは薬箱を優しく撫でた。
「薬箱が」
「待ってた」
「治せる人じゃなくて」
「最後まで諦めない人を」
その言葉に。
薬箱は。
まるで返事をするように。
優しく光を放った。
その瞬間。
火山の外。
遥か彼方の空で。
誰にも知られていない一本の若木が。
静かに芽吹いた。




