第百二話
「病の始まり」
世界樹の診察記録に浮かぶ文字。
『虚無侵食症・原初個体』
誰も言葉を発せなかった。
炎だけが揺れる。
静かな熱風が吹き抜ける。
ヴェルグはその文字を見て。
苦く笑った。
「やっぱり」
「そう呼ばれるか」
驚きはなかった。
もう。
自分でも分かっていた。
シオンは診察記録を見つめる。
文字が続いていく。
『発症から約千年』
『進行率 九十七%』
アカネが息を呑む。
「九十七……」
炎竜が静かに目を閉じる。
『ここまで生きていたこと自体が奇跡だ』
ヴェルグは小さく肩をすくめた。
「奇跡じゃない」
「止まれなかっただけだ」
その声には。
疲労しかなかった。
世界樹の診察記録に。
さらに文字が浮かぶ。
『発症原因を検索』
ページがひとりでにめくれていく。
一枚。
また一枚。
そして。
千年前の光景が映し出された。
まだ。
世界樹が五本とも輝いていた頃。
若いヴェルグ。
若いアルヴァ。
二人は並んで立っている。
笑っていた。
今では想像もできないほど。
仲の良い友だった。
ホタルが小さく呟く。
「……友達だったの?」
アルヴァは何も答えない。
ただ。
映像から目を離せなかった。
映像は続く。
世界樹の根元。
そこに。
一人の少女が倒れていた。
白い髪。
白い巫女装束。
胸元は黒く染まっている。
シオンがぽつりと言う。
「患者」
ヴェルグが静かに頷いた。
「ああ」
「最初の患者だった」
誰も知らなかった。
虚無侵食症は。
ヴェルグから始まったのではない。
もっと前。
一人の少女から始まっていた。
映像の中で。
ヴェルグは少女を抱き起こしている。
必死だった。
「死ぬな!」
「頼む!」
その叫びは。
今まで見せたことのないものだった。
若き日のヴェルグは。
泣いていた。
何度も。
少女の名を呼んでいた。
しかし。
肝心の名前だけが。
光に包まれ。
聞き取れない。
世界樹の診察記録にも。
そこだけは空白になっていた。
シオンが首を傾げる。
「名前がない」
炎竜が静かに答える。
『消されたのだ』
『世界樹そのものによって』
全員が息を呑む。
世界樹が。
名前を消した。
そんなことができるのか。
ヴェルグは遠い昔を見るように呟く。
「忘れたくて消したんじゃない」
「世界を守るために」
「彼女は自分の名前を代償にした」
静寂。
シオンは診察記録をそっと閉じる。
そして。
ヴェルグを見つめた。
「だから」
「ずっと探してたんだ」
ヴェルグは初めて。
驚いたように目を見開いた。
千年間。
誰にも理解されなかった願い。
世界を壊したかったのではない。
忘れられた一人を。
救いたかった。
ただ、それだけだった。
その瞬間。
世界樹の診察記録の最後のページが。
誰にも触れられていないのに。
静かに開いた。
そこには文字が一行だけ浮かんでいた。
『すべての始まりは、名を失った巫女の記憶にある。』




