第22話 裏通りの蜘蛛の糸――墜ちた英雄の歪む執着と、強欲な悪党の甘い毒
太陽の光すら届かぬ、湿っぽく薄暗い裏路地。腐臭と下水の匂いが立ち込め、社会の底辺に生きる犯罪者やならず者が身を潜めるスラム街の片隅に、かつて世界を救った英雄の姿があった。
泥と埃に塗れた粗末なボロ布を頭から被り、膝を抱えて震えている男――勇者アサギである。
光の当たらない場所。極悪非道な悪意が不気味に蠢く場所。
全土に指名手配され、世界から見捨てられ地に落ちた英雄にとって、いまやこの地獄のような場所こそが唯一の隠れ家であった。
(なぜだ……! どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ……っ!?)
膝に顔を埋めたまま、アサギの心の中では怨嗟と納得のいかぬ激しい怒りが渦巻いていた。
自分は魔王を倒し、邪神を封印して世界に平和をもたらした絶対の英雄のはずだ。
それなのに、愚かな王国の要望に応えて千人斬りの『首斬り』に立ち向かい、国家の存亡をかけた戦場にも身を投じた。
それなのに……その血と汗の結末が、これなのか。全土から追われ、薄暗い泥の中でこそこそと身を隠し、今日のパン一切れすら買えずに腹を減らせて震える日々。世界に対する理不尽な憎悪で、彼の心は荒みきっていた。
「……おいおい、見間違いかと思ったが……お前、勇者アサギじゃねえか? へっ、こんな良いところで会えるとはついてるぜ」
不意に頭上から投げかけられた声に、アサギはビクッと肩を跳ね上げた。恐る恐る頭を上げると、そこには豪奢な皮の服を纏い、不敵で下品な笑みを浮かべた筋骨隆々の男が立っていた。
「ち、ちが……俺は――」
逃げ出そうと身を引くアサギに対し、男はニヤニヤと笑いながら手で制した。
「良いって、そう警戒すんなよ。俺を覚えてないか? 王都の冒険者ギルドでギルド長をやってたゲルダだ。へっ、お前と同じさ……あの狂った『首斬り』のせいで身を崩した同類なんだよ」
「そ、そうなのか……?」
この男、ゲルダはかつてイゾルフと鍛冶師ギルドを陥れようとして自滅し、職を追われた元ギルド長であった。
没収されるはずだった巨額のギルド財産を隠し持って逃亡したため、いまも潤沢な金を隠し持っている。
元々裏社会の闇が深い組織と密接に繋がっていたため太いパイプもあり、元冒険者としての腕も立つ。その正体は、金と権力にどこまでも執着する強欲な悪党そのものであった。
「まあ、せっかく出会ったんだ。腹が減って倒れそうなんだろ? 俺がとびきり美味い飯を奢ってやるよ。ついて来い」
ゲルダの甘い言葉に、飢えと孤独に苛まれていたアサギの理性は簡単に膝を屈した。
◇◇
案内されたのは、怪しげなスラムの裏通りには似つかわしくない、隠れ家風の高級で豪勢な料亭であった。
テーブルの上に所狭しと並べられる、滴る肉汁の香ばしい肉料理と高級な酒。貪るように肉を食らい、久しぶりの酒が身体に回ると、アサギの硬く閉ざされていた口はあっという間に滑らかになった。
「ひどい話なんだよ! 俺は世界のために戦ってきたんだ! なのに民も聖女も、誰も彼も俺を裏切りやがった……!」
酒の杯をテーブルに叩きつけ、積もり積もった愚痴と恨み言を撒き散らすアサギ。
対するゲルダは、怒ることも呆れることもなく、まるで我が事のように激しく頷き、全肯定の態度で親身になって話を聞いていた。
「分かる、分かるぞアサギ! お前は何も悪くねえ! 俺もそうだったんだ。まさかあの生意気な鍛冶師どもの背後に、あんな化け物が潜んでいるなんて誰にも分からねえよなぁ! お前はただ、正義感から国を助けようとしただけだ。悪いのはあの裏切り者どもと、首斬りのガキさ!」
「そうだろ……!? 分かってくれるか、ゲルダ!」
「ああ、もちろんだ! 俺とお前は魂の理解者だからな!」
ゲルダの巧みな共感と優しさに、追い詰められていたアサギの心には絶大な安心感と信頼が芽生えていった。
心理学で言う『アンダードッグ効果』――対象者が人生のどん底にあり、周囲の人間が誰も味方をしてくれない状況で、「私だけはあなたの味方であり、あなたの苦しみを世界で一番理解している」と強くアプローチすると、対象者はその救い手に依存するようになり、理性を失って盲従してしまう。いわゆる「洗脳」に近い状態が完成するのだ。
アサギが完全に毒に侵されたのを見計らい、ゲルダは酒をあおりながら、ボソリと本音を呟くように口を開いた。
「……だがよ、やっぱり悔しいよなぁ。あの『首斬り』のせいで、俺たちの人生は無茶苦茶にされたんだ。あいつを叩きのめして、ギャフンと言わせたくはないか?」
その言葉を聞いた瞬間、アサギの全身に冷や汗が吹き出し、体がビクッと硬直した。一瞬にして酒の酔いが吹き飛ぶ。
「む、無理だ……! 俺は……俺はあの『首斬り』に一度殺されているんだ! 聖剣すら一瞬で叩き折られた……! 勝てるわけがない、勝ち筋なんてどこにも見えないんだ……っ!」
アサギの目に宿った本気の恐怖と怯えを見て、ゲルダは心の中で冷酷に毒づいた。
(……チッ、魔王を倒した勇者と聞いてみれば、一回殺されたくらいで完全に心を折られてやがるのか。使えねえ腰抜けめ)
しかし、ゲルダの計算高い脳細胞はすぐに別の可能性を弾き出した。
(……いや、待てよ。どれほど怯えていようが、こいつの元々の戦闘能力は本物だ。魔王を殺した超一流の『駒』であることに変わりはない。首斬りを殺して俺が再び裏社会の覇権を握るために、こいつ以上の捨て駒(切り札)は存在しねえ)
ゲルダは一瞬で表情を作り直すと、極めて温和で頼もしい笑顔をアサギに向けた。
「なるほどな、言いたいことは分かった。正面から戦えばあの化け物には勝てねえ。……だがなアサギ、やり方次第じゃあ、絶対に勝てる方法ってのは存在するぜ? 真っ向勝負がダメなら、頭を使えばいいんだ。一緒に最高のリベンジ方法を考えてやろうじゃないか」
「勝てる方法……? 本当に……?」
「ああ、俺に任せろ!」
それからというもの、アサギはゲルダの高級な隠れ家に『食客』として迎え入れられた。
ふかふかのベッド、上質な衣服、毎日提供される豪華な食事と酒。ゲルダは惜しみなく金を注ぎ込み、アサギに贅沢の限りを尽くさせた。
これこそが、ゲルダの狙った第二の心理テクニック――『返報性の法則』であった。
人間には、他人から過分な施しや恩恵を受けた際、「この莫大な借りをそのままにしておくのは気持ち悪い。何としてでも同等以上の何かでお返しをしなければならない」と強く思い込んでしまう抗いがたい心理メカニズムが存在する。
毎日贅沢な思いをさせられ、ゲルダから「お前は俺の最高の相棒だ」と持ち上げられ続けたアサギの心には、徐々に逃げ場のない『深い借り』が蓄積されていった。
(ゲルダは俺の唯一の理解者だ……。こんなに良くしてもらって、頼みを断るわけにはいかない……。俺はゲルダのために、もう一度あの『首斬り』と戦わなきゃならないんだ……!)
強欲な悪党ゲルダの手によって、自尊心と恩義の鎖で縛り上げられた勇者。
かつて世界を救った純粋な英雄は、こうして一人の男の邪悪な野望を叶えるための「都合の良い捨て駒」として、完全に手中に収められてしまったのであった。




