第2話 神を研ぐ鍛冶師、平穏を破る雷光の洗礼――辺境の日常に潜む神殺しの刃
「おい、イゾルフ! 俺のナイフは研ぎ終わったか? 明日には獣狩りに行かねばならんのだ」
湿った空気と共に、荒々しい声が鍛冶場の静寂を切り裂いた。
扉の向こうから現れたのは、厚手の皮の外套を纏った屈強な男、ジャックだ。その顔には無数の古傷が刻まれ、腰には獲物を仕留めるための愛用の狩猟ナイフが下げられている。
「……ああ、ジャックおじさんか。すぐ終わるよ、あと少しだけ待ってくれ」
イゾルフは手元を動かしながら答えた。ジャックはイゾルフにとってただの村の狩人ではない。かつて父が冒険者として名を馳せていた頃、死線を共に潜り抜けたパーティメンバーの一人だ。
父とジャック、そしてジャックの妻であり凄腕の薬師であるマリア。彼らは、かつてこの村の村長だった剣士・ゾネントアの呼びかけに応じ、辺境の地で隠居生活を送っていた。鍛冶、狩猟、医術。この閉ざされた辺境において、彼らの技術はまさに村の生命線と言っても過言ではなかった。
「……何だ、またその剣を磨いているのか。お前も親父さんに似て、剣オタクだな」
ジャックは呆れたように鼻を鳴らし、イゾルフの手元を覗き込んだ。
イゾルフが磨いているのは、当然、天之尾羽張だ。その禍々しくも神々しい光沢は、薄暗い鍛冶場の中で異様な存在感を放っている。
『おっ、この粗野な男、なかなか分かっているじゃないか。おいイゾー、退屈で死にそうだ。何か手頃な獲物でも斬りに行くか? その男のナイフとやら、試し斬りの道具にはちょうど良さそうだな』
脳内に直接響く高飛車な声に、イゾルフは苦笑する。今や二人の間には、主従というよりも奇妙な共犯関係に近い絆が芽生えていた。イゾルフは心の中で溜息をつき、念話で返す。
(尾羽張様、頼みますから静かにしてください。私は鍛冶師であって、戦士じゃないんです。剣を振るうのはご勘弁を……)
「いや、おじさんも知ってるでしょ。俺にできるのは鉄を叩くことだけだよ。剣の腕なんて、からっきしさ」
「な~に、剣の振り方ぐらい俺が……ん?」
ジャックの言葉が、途中で止まった。
彼の視線が、イゾルフが愛おしそうに布で磨いていた天之尾羽張の剣身に釘付けになる。長年、戦場を駆けてきた冒険者の本能が、何かに警鐘を鳴らしたのだ。
「……おい、イゾルフ。その剣は親父さんの形見じゃなかったはずだ。見たことがない造りだな……いや、それ以前に」
ジャックの顔色がサッと変わった。百戦錬磨の男の目が、獲物を捉える鋭さを帯びる。
「……ちょっと見せてくれ。その剣、ただの鉄じゃないだろう」
「ちょ、ちょっと待って! それはダメだ!」
イゾルフが止めるのも聞かず、ジャックは吸い寄せられるように天之尾羽張へ手を伸ばした。それは狩人として、あるいは戦士として、優れた武具に対する抗いがたい衝動だった。
しかし、天之尾羽張は神である。神に、人の身で無断で触れることなど許されるはずもない。
「バシッ――!」
ジャックの指先が、天之尾羽張の冷徹な刃に触れたその瞬間。
鍛冶場に閃光が走った。
それは単なる火花ではない。天の怒りを凝縮したような、青白い稲妻だ。雷鳴が鍛冶場を震わせ、イゾルフの愛用する金床が悲鳴を上げて罅割れる。
「ぐあああああああああっ!!」
ジャックはまるで巨大な質量に殴り飛ばされたかのように、激しく後方へ吹き飛んだ。背後の木の柱に激突し、彼はのたうち回りながら自分の手を押さえる。指先からは黒い煙が上がり、肌は焦げ付いていた。
「な、なんだ……っ!? 一体、何が起きた……ッ!」
イゾルフは慌ててジャックに駆け寄る。
ジャックは激しい痛みに喘ぎながら、青ざめた表情で、転がっている天之尾羽張を指さした。その眼には、恐怖と、冒険者としての戦慄が入り混じっている。
「伝説の聖剣……いや、そんな生易しいものじゃない。……おい、イゾルフ。お前、とんでもない魔剣か、あるいは災厄そのものを家の中に持ち込んでいるんじゃないか……!」
ジャックの荒い息遣いの中、床に落ちた天之尾羽張が、まるで笑うかのように鈍く、そして美しく輝きを増していった。
辺境の鍛冶場に隠された「神」の正体が、今、村の知恵袋であるジャックによって暴かれようとしていた。
『ふん。無礼な人間め。我に触れるには、まだ魂の磨きが足りぬようだな』
天之尾羽張の声が、イゾルフの脳内に低く響く。
イゾルフは、地面に転がる古剣を拾い上げる。その刃は、先ほどの出来事など無かったかのように静まり返っていたが、イゾルフの掌には、神の温度が確かに残っていた。
この村の平穏は、今この瞬間、崩れ去った。




