第4話 「地獄の底」を拒むとき(1/2)
ある日、二人は王都に出向いていた。
ここのところ、アルヴィスは素材集めの手伝いをしている。
生き物の狩猟、採石、日を跨いでの遠征。
今までは全てユクが一人でやりくりしていたものだ。
身体的に難しいものはすべて金で解決していたため、良いものも採れて出費も減り、最近はかなり余裕のある生活を送れるようになってきている。
道中、ユクは少しそわそわし、チラチラとアルヴィスの様子を窺った。まるで何かを、言うか言うまいか悩んでいるようだ。
やがて王都の喧騒の中へと入っていく。アルヴィスは周囲の視線を「殺気」として検知しながら、一歩後ろでユクを護衛していた。
ユクはここで、薬師のコミュニティで情報交換をしたり、案件を受注したりする。
村での定期検診はほぼボランティアであるため、ここが主な収入源だった。
紺色の新しい外衣とキャスケット帽に身を包んだユクは、――その体躯からまだ「良いとこの坊ちゃん」のように見えなくもないが――見違えるほど立派な青年となった。
だが、その中身は相変わらずのようで……
「……おい、ユク。さっきから挙動が不審すぎるぞ」
「ふぇ!? え、ええっと……!」
アルヴィスは、すれ違うゴロツキを鋭い三白眼で牽制しながら、隣のユクを覗き込む。
「言いたいことがあるなら言え。……まさか、またどっかの路地裏で『困っている人を助けたい』なんて寝言を言うつもりじゃないだろうな。今の俺は機嫌が悪いんだ、お前に触れようとする奴は、たとえ病人でも斬りかねないぞ」
わざと低く威圧的な声を出しながら、睨みをきかせるのを忘れない。
逃げ道を塞ぐように、まっすぐに見つめる瞳がユクを追う。
アルヴィスは、ユクが隠し事をしているのが気に入らないというよりは、彼が一人で悩み、自分を頼ってくれないことに対して、無自覚に寂しさを覚え、憤っているのだった。
「あ、あの……アルヴィス様……。えっと……」
ユクは歯切れ悪くごにょごにょと何か言い、その声が小さすぎてアルヴィスの耳に届かなかったことを知ると、意を決したようにアルヴィスの服をひっぱり、「屈んでくれ」という意思を示す。
アルヴィスが屈むと、その耳元で、アルヴィスにだけ聞こえる声で、囁く。
「あの……。手を、繋いで……歩きたいです……」
か細く、喧騒にかき消されてしまいそうな声で。
言い終えると、ユクはまた顔をトマトのように真っ赤にし、俯いてしまった。
「…………は?」
あまりに予想外な、そしてあまりにおめでたい要求に、アルヴィスの思考は一瞬停止した。
ここは王都のど真ん中。周囲は血の気の多い冒険者や、鼻持ちならない貴族、それに獲物を探すコソ泥で溢れかえっている。そんな場所で、男二人で手を繋いで歩こうというのだ。
「……お前、自分が何を言ってるか分かってんのか。……俺は、お前の番犬で、護衛で……」
言いかけ、俯いて耳まで真っ赤にしているユクの横顔を見る。
アルヴィスの服を掴んでいるその指先が、微かに震えていた。
手放したら、この喧噪にかき消えて――二度と姿を現してはくれないだろう、幽かで頼りない手。
「……チッ、本当に、救いようがねえな」
アルヴィスはわざとらしく大きな溜息をつくと、戸惑ったように顔を上げたユクの小さな手を、指の間まで絡めるようにして、力強く、そして強引に握りしめた。
「……一回しか言わないからな。……はぐれたら、タダじゃおかねえ。絶対、離すなよ」
繋いだ手を、誰に見せつけるわけでもなく、けれど誰にも引き剥がせないほど強く握る。
アルヴィスの荒れた掌に、ユクの少し湿った温かい体温が伝わってきた。
身なりが変わっていったのは、アルヴィスも同じだった。
依然として黒を好むのは変わらないが……夜闇に紛れる厳つい戦闘着から、ラフで動きやすい冒険者向けの格好に変わっている。
これも、ユクとの生活を軸に変わっていったものだ。
「……ほら、行くぞ。薬師のギルドはこっちだろ。……さっさと仕事を終わらせろ。……終わったら、お前の好きな、あの甘っちょろい茶が出る店にでも寄ってやるから」
前を向いたアルヴィスの顔は――ユクに負けないくらい、赤く染まっていた。
周囲の視線なんてどうでもいい。今はただ、この細い指から伝わる、アルヴィスを生へと繋ぎ止める温もりだけが、何よりも確かな現実だった。
「アルヴィス様……♡」
ユクは花のように笑顔を綻ばせ、ぎゅ、ぎゅ……♡ と手を握り返す。
「ふふ、幸せです、アルヴィス様……♡」
ユクは目に見えて上機嫌になり、にぎにぎとアルヴィスの手の形を確かめる。
……手と手が触れ合い、体温を交換しあっている。
それだけでユクは浮き足だち、年甲斐もなくスキップしそうになっている。有頂天だ。
しかしギルドへ向かう道中。ふと、ユクは路地の脇で子供がへたり込んでいることに気がつく。
「……!」
先ほどのアルヴィスの忠告など忘れ去ってしまったのか、呆気なく手を離し、子供の元へ駆け寄る。
そして手際よく脈や体温を測り、声をかける。薬師としての本懐なのだろう。
「……あ、おい! ユク!」
アルヴィスは、掌に訪れた急な冷たさに、心臓が嫌な跳ね方をした。
さっき「離すな」と言ったばかりなのに、この男ときたら!
……だが、駆け寄った先で子供の泥だらけの手を握り、真剣な目つきで問診を始めるユクの横顔を見て、アルヴィスは不機嫌そうに言葉を飲み込んだ。
「……たく。お前は本当に、俺の言うことを一秒で忘れやがる」
アルヴィスは舌打ちしながらも、ユクの無防備な背中を庇うようにして、背後に立ち塞がった。
王都の往来だ。うずくまる子供と、それにかかりきりの薬師なんて、格好の獲物に見えるはず。アルヴィスは腰のナイフがいつでも抜けることを確認し、周囲を刺すような視線で威圧する。
「……ガキ、命拾いしたな。世界一おめでたい薬師様に捕まったんだぞ」
毒づきながらも、アルヴィスはユクが治療に集中できるよう、影となって彼を包み込む。
ユクのこういうお節介が、いつか彼を破滅させるかもしれない。アルヴィスはそれが怖くてたまらない。だが、同時に……そんな彼だからこそ、このささくれ立った心が絆されてしまったのだということも、痛感していた。
「アル、鞄を」
ユクは、手短にそれだけ伝える。
アルヴィスには、未だに専門的なことはわからないが、こうして助手としてユクの仕事を手伝えることがどこか誇らしかった。
「顎で使うんじゃねーよ」
悪態はつきつつも――周囲への警戒は怠らない。
重い鞄を降ろすと、ユクの方に向けて開けて見せる。
ユクは最近こうして、色んな仕事で少しずつ、アルヴィスの手を借りている。
物を取る、風を送る、重い物を持つ。
そうやって、アルヴィスと共に何かをすることに、喜びを見出しているようだった。
ユクは子供を軽い栄養失調と判断し、子供の身体にも優しい、胃に負担の少ない栄養剤を選ぶ。
「本当は、薬膳で……身体本来の力で、回復へ向かうのが一番なんですけど……」
ユクは眉根を寄せて、むむむと悩む。
そして優しい笑顔で子供の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、怖くないよ。息をゆっくり吸って、吐いてごらん」
水と共に薬を飲ませる。そして子供を抱きしめ、背中をさすって呼吸を促す。
すると子供はやっと安心できたようで、張り詰めていた糸が切れたかのように泣きじゃくる。
ユクは咄嗟に、あやすように子供の背中をトントンと優しく叩いた。
「ああ……困ったな。どこにも行かないよ。手を握ってるから」
「……泣きやめ、ガキ。お前の命を救ったのは、世界一おめでたいが、腕だけは確かな男だ。これ以上泣くと、食っちまうぞ」
アルヴィスはわざとらしく怖い顔をし、低い声で脅す――ユクはその光景を、「不器用ながらあやしてくれている」と捉えたが……その実、ユクが子供を抱きしめている姿を見て、胸の奥がチリりと焼けるような感覚に襲われていただけだった。
――独占欲だ。
子供相手だろうと、その温もりを独り占めされているのが気に入らない。
自分だけのものだったはずのユクの手が、今は別の誰かを救い、癒している。
だが、そんなアルヴィスの怒りをよそに、泣きじゃくる子供はユクに縋り付く。
ユクが子供の手を握っているのを見て、アルヴィスは思わず鼻で笑ってしまった。
「……お前、本当に手を握るのが好きだな」
アルヴィスはしゃがみ込み、ユクが子供の手を握っているその上から、大きな手で二人の手を包み込むように重ねた。
ごつごつした男の手。
ユクのしなやかな手。
そして、子供の小さな手。
「アル……!」
子供の手を握るその手に、アルヴィスの手が重なり、ユクは感動した。
アルヴィスも、「共に子供を温めようとしてくれている」と感じたからだ。
心が一つになっていると信じ込み、アルヴィスの腹の内など気づきもせず、その広い胸に頭を擦り付け甘えた。
「……泣き止んだら、このガキは衛兵に預けるぞ。……いいな、これ以上は俺の我慢の限界だ。……仕事、今日は仕事だろ。さっさと終わらせろ」
ユクの耳元で、子供には聞こえないほどの低い声で不満を漏らす。
一刻も早く、この「お節介な薬師」を奪い去って、自分だけの場所へ帰りたがっていた。
それからユクは、子供が泣き止むまで温めた。
携帯用の栄養剤を幾つか持たせて、衛兵に預ける。
子供が見えなくなってから、ユクは少し深刻そうな顔をした。
「きっと……家が貧乏なんだ」
ポツリポツリと、呟く。
「あれは、慢性的な栄養失調だった。それで守ってくれる親もいないんじゃ、根本的なことは何も解決できてない。きっとあれじゃ、全然足りない」
「……そうだな。明日にはまた、あいつの腹は鳴るだろうよ」
アルヴィスは、去っていく子供の背中を冷めた目で見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。
ユクが何を思い、何に胸を痛めているかなんて、わざわざ聞かなくても分かる。
目の前で命が潰えそうになるのを、見過ごすことができないのだろう。
「根本的な解決? ……そんなもん、このクソみたいな街の仕組みを全部ぶち壊すか、王様にでもならなきゃ無理だ。薬師一人が背負えるもんじゃない」
アルヴィスはユクの肩に手を置き、無理やり自分の方を向かせた。
沈痛な面持ちのユク。その綺麗な瞳に、救えない悲劇の影をいつまでも映しておきたくなかった。
「……だが。お前があのガキに飲ませた薬の味は、あいつの中に残る。……死にかけた時に、誰かが自分の手を握って、温かいものをくれた。それだけで十分……救いにだってなる」
アルヴィスは少し乱暴に、ユクの頭を撫で回した。
「……お前は神様じゃない。ただのお人好しで、マヌケな……ちっぽけなバカだ。全部救おうなんて欲張るな。……それでも俺は、お前に救われたんだから」
アルヴィスはそのまま、ユクの手を力強く引いて歩き出した。
いつまでも立ち止まっていれば、ユクはまた別の誰かの痛みを見つけて、誰かの何かになろうとする。
「……ほら、行くぞ。ギルドで報酬をたんまりもらって、余った金で……あのガキに、保存の利く食糧でも送ってやればいい。……それで、お前のその情けない顔はおしまいだ。いいな?」
不器用な慰め。だが、これがアルヴィスにできる精一杯だった。
ユクを悲しみから引き剥がすように、アルヴィスは再びその指を絡め、今度は二度とはぐれないよう、自慢の膂力でその手を支配した。
「アル……」
アルヴィスなりの激励に、ユクはまた少し泣きそうになった。
「ふふ。痛いですよ、アルヴィス様」
「痛い」と言う割には、その顔はくすぐったそうだ。
ユクには、アルヴィスがいる。自分を犠牲にするよりも、守らないといけないと思える何かがある。
アルヴィスは……自分がユクにとって、そういう重くて温かい碇となっていることを、願うばかりだった。




