第3話 隣人は、凍てつく薬師の「なみだ」を融かす
翌朝。
アルヴィスは目を覚ます。横では、ユクがぐったりと――しかし幸せそうに眠っている。
昨晩、ユクは「傷に障ります」と言って、せめて己を薬師として律しようとしたが、結局「アル、アル」とアルヴィスを呼び、深く求めることとなった。初めての蜜事を終え、ぐっすり寝込んでいる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、乱れた布団の上を照らしている。
隣で、昨夜あれほどアルヴィスの名前を呼び続け、最後には泣きながら縋り付いてきたユクが、まるで泥のように眠っていた。
「……たく。あんなに威勢よく、傷に障るだなんだと言ってたくせに」
アルヴィスは半身を起こし、シーツから覗くユクの肩に、昨夜自分が刻んだ赤い痕を見つめた。
眠っている時のユクは驚くほど幼く、そして呆れるほど無防備だ。死神にここまで魂を預けて眠れるなんて、やはりこいつの「おめでたさ」は病の域だ、と骨身に沁みた。
アルヴィスはそっと手を伸ばし、ユクの頬にかかった黒髪を指先で払う。
熱っぽい吐息を漏らし、幸せそうに口元を緩めるユク。その様子を見ていたら、胸の奥が今まで感じたことのないほど穏やかで、それでいて重たい充足感に満たされていく。
「……アル、か。勝手に呼び捨てやがって」
独り言のように呟きながらも、自然と顔は綻んでいた。
アルヴィスは音を立てないように布団を抜け出すと、床に散らばった昨日の服を片付け、代わりに台所へ向かった。
昨日のユクの動きを思い出しながら、不器用な手つきで火を熾す。
「……まずは、白湯か。それから……なんだ? 関節痛に効く薬草でも煎じてやるか」
昨日の薬箱から、確か「痛みを和らげる」と言っていた草を探し出す。
暗殺の道具を扱うよりもずっと慎重に、愛する「獲物」のための特製スープを準備し始めた。
「ん……」
寝室。ユクが目を覚ます。遠くでコポコポコポ……という湯の沸く音が、ユクの意識をくすぐった。
「アル……」
手が、空を掴む。昨夜の「愛しい人」は、この布団にいない。自分のものではない温もりが、わずかに残っているのみ。
ユクは、すこし心がキュッと傷んだ。布団を直し、匂いを嗅ぐ。
……アルヴィスの、香り。
ふと、初めて会った頃のアルヴィスの香りを思い出す。
孤独に荒野をひた走る、何かから逃げるような男の香り。
アルヴィスの抱えているものも、感じている孤独も、ユクは知らない。
けれど、どうしてだろう、抱きしめずにはいられなかった。
……音のする方へ、フラフラと歩く。
昨晩は、日頃しない体勢を取ったせいか、全身が軋んでいる。
キシ、キシ……。床の軋む音が、期待だか不安だか、よくわからないものを混ぜていた。
「……」
台所に立つアルヴィスを見て、ユクは、言葉に詰まった。
なにかが、胸の中で大きく膨らむ。
ずっと一人で暮らしてきた。
誰に頼ることもせず、この家で。
見返りなど、求めたことはなかったけど。
空っぽの、自分以外存在しないこの家で、誰かが住み、息をしている。
共に求め合い、熱を交わし、今、台所に立っている。
……それは、生きるためだ。
命を紡ぐために、手を動かし、思考する。
その光景だけで、ユクは、苦しいほど胸がいっぱいになり、涙が溢れた。
「おい、起きたのか。……って、なんだその顔は」
鍋の様子を眺めていたアルヴィスは、気配を感じて振り返り、そこに立ち尽くすユクを見て言葉を失った。
ボロボロの着物一枚を羽織り、ひどく不格好な足取りで立っているその男の目から、大粒の涙が溢れ落ちている。
「……っ、オイ、痛むのか? それとも、どっか怪我したか? ……それとも、腹でも痛めて……」
慌てて火を止め、濡れた手を拭くのももどかしくユクに駆け寄る。
昨夜は、優しくしたつもりであったが。後悔させてやるなんて豪語したが、実際に涙を見せられると、心臓を直接素手で握りつぶされたような衝撃が走る。
「……泣くな。悪かった。……俺が、加減を知らねえバカだったんだ。ほら、座れ。今、薬草を……」
アルヴィスが差し出した手を、ユクが震える手でぎゅっと握りしめた。
その手の温もり、縋るような力強さ。
それが拒絶ではなく、もっと深い、言葉にならないほどの情愛から来ているものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「……なんだよ。……お前、本当に……どこまでもおめでたい奴だな」
アルヴィスは立ち尽くすユクを、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。
台所の、生活の匂いが染み付いたこの場所で。
暗殺者として、命を刈り取るために生きてきた手が、今、たった一人の涙を拭うために、ただその人の孤独を埋めるために動いている。
「……ずっと一人だったんだろ。……俺もだ。だから、そんな顔をするな。……お前の家に、俺がいる。俺の隣に、お前がいる。……それだけのことだろうが」
ユクのうなじに顔を埋め、深く、深く、その体温を吸い込む。
昨日のトゲトゲしい「番犬」の面影はどこへやら、今のアルヴィスはただ、この小さな薬師を二度と独りにさせまいと誓う、ただの男だった。
「……ほら、泣き止め。せっかく俺が……一生懸命、なんかそれっぽいスープを作ってやってるんだぞ。変な風になってたら、お前が邪魔したせいだからな」
わざと意地悪いことを言いユクの頭をくしゃくしゃと撫でる。
ユクの震えがゆっくりと収まっていくのを感じながら、アルヴィスはこの不器用で、熱くて、どうしようもなく愛おしい「暮らし」を、命を懸けて守り抜くことを、改めて自分に刻み込んだ。
「アルヴィス、様……」
ユクはアルヴィスの頭を抱き寄せ、自分から深い口付けを交わす。
何度も角度を変え、熱を交換する。
「アルヴィス様……」
目を細め、笑おうとする……が、上手くできない。代わりに涙が溢れた。
「俺と、生きて……、生きてください、アルヴィス様……。ここで、俺と二人……。あなたの熱を、全てください……。このスープも、あなたの苦しみも、孤独も……、全て俺に、ください……」
ちゅ、ちゅ……、と、縋るように頬や首筋にキスをおとす。
「……全部、だと? お前……本当に欲張りな薬師だな」
「なにを言いますか、アルヴィス様だって昨晩同じことを仰っていたのに……」
ユクは子供らしく頬を膨らませると――へにゃりと笑い、名残惜しそうにアルヴィスを解放した。
「お腹が空きました……ふふ、良い香りです。なにをお作りになったのですか?」
効能が知りたいのではない。ただ、愛しい人がなにを考え、その手を紡いだのか、それが知りたかった。
「……スープの中身か? お前の薬箱をひっくり返して見つけた、関節の痛みに効くっていう枯れ草と……あと、昨日の残りの肉だ」
アルヴィスはユクの気配に気を配ったまま、もう一度火床の上の鍋を覗き込む。
プロの料理人には程遠いが、今のアルヴィスにできる精一杯の「命の紡ぎ方」だった。
「……味の保証はしねえ。だが、お前が『俺の全部よこせ』なんて言ったんだ。……残さず全部食えよ」
ユクを椅子に座らせ、温かいスープを並べる。
「……食べ終わったら、今日はなにをするか教えろ。俺の送る『生活』とやらは、全部お前が握ってるんだからな」
不器用な番犬は、今や誰よりも甘い独占欲を瞳に宿し、その愛しい薬師を見つめていた。




