第2話 (3/3)
同日、夕方。
検診も終わり、二人は家に帰ってきた。
ユクはもうその頃にはすっかり元気を取り戻しており、アルヴィスは行きよりも多くの荷物を抱えている。
「たくさん持たせてすみません……。普段は一人じゃ運びきれないので必要な分だけでしたが……予期せぬ収入もありましたし、つい買い込んでしまいました……!!」
心なしか、ユクの頬も上気している。この仕事が、好きなのだろう。
ユクは村で医者としての役割を引き受けているだけでなく、たまに王都にも出向くらしい。そのための買い物を前倒しでしたようだ。
「お腹空きましたね、夕餉の準備をします!」
とてとてと、キッチンの方へ行ってしまった。
「……ふん。これくらいの重さ、荷物のうちに入らねぇよ」
鼻を鳴らし、担いでいた大荷物を無造作に床へ下ろす。
だが、その中身が単なる食料ではなく、ユクが「これで誰かを救える」と目を輝かせて選んだ物も入っていると思うと、乱暴に扱う気にもなれず、結局は丁寧に並べ直してやった。
(……予期せぬ収入、だぁ?)
あの店主から毟り取った「詫びの品」をそう呼ぶとは、どこまでも毒気のない男だ。あるいは、意外と神経が太い。
キッチンから聞こえてくる、トントントンという軽快な包丁の音。
静まり返っていたこの小屋に、生命の音が満ちている。
アルヴィスは、一日の「仕事」を終えて寛ぐわけでもなく、椅子に深く腰掛けて、忙しなく動くユクの背中をじっと眺めていた。
村には大した仕立て屋がなかった。皆自給自足を基本としており、売っているのは生地ばかり。成人向けのフリーサイズの服は売られていたが、小柄なユクに合うサイズの既製品は売られていなかった。
ユクは、嬉々としてアルヴィスの服を買った。土と脂と血で塗れたこの黒衣を、洗濯したいらしい。ユクは、元々そのつもりで来ていた。村に自分に合うサイズの服が無いことは最初から知っている。アルヴィスが自分の服を本気で見繕うつもりでいたことなど、知りもしないだろう。
――ユクは語った。村では子供の服は、親が針仕事として縫うのだと。愛情を込めて、もしくは、将来の成長を願って。大人になると、親から服の縫い方を教わる。だから村には小さい服は売っていないのだと。
ならば、ユクにも将来を願って針に糸を通してくれた者がいたのだろうか。天涯孤独であったアルヴィスは、胸がチクリと焦げ付くような感覚を覚える。
……だが、それだと少し、違和感がある話だった。
ユクの服は……清潔に洗濯されてこそいるが、生地は伸び切り、不器用にツギハギで修復されているばかりだ。それに、この家にユク以外の人間が生きていた影は無い。
村から離れたこんな場所で独り、「村という輪」から外れ――ユクはどのように生きていたのだろうか。
裏表もなく、いかにも人好きしそうな性格であるというのに。ユクから時折香る孤独の影。他人に深く干渉することを避けているようだと、アルヴィスはその所作を目ざとく感じ取っていた。
「……おい、ユク」
背中に向けて、低く声をかける。
「……王都にも行くと言ったな。あんな魔物の巣窟みたいな場所、お前一人で歩けるわけがない。衛兵も、ギルドの奴らも……お前のその、マヌケな善意でどれだけ無心されてきた」
想像するだけで、奥歯が軋む。
ユクが街角で悪い奴らに囲まれ、悪意をもったやつらに「助けてください」と一言言われれば、なすがままヘラヘラと笑いながら財布を差し出している光景が容易に浮かぶからだ。
「……これからは、俺の許可なく一歩も外へ出るなよ。王都だろうが、あの村だろうが……俺の鎖が届く範囲にいろ。分かったか」
アルヴィスは立ち上がり、台所の入り口まで歩み寄ると、壁に背を預けてユクの横顔を覗き込んだ。
「……腹が減った。今日は何を作るつもりだ? お前の言う通り――食わないと『番犬』としての役目が果たせないからな」
口角を僅かに上げ、アルヴィスは初めて、敵意のない穏やかな――けれど執着に満ちた笑みを、その薬師へと向けた。
「ふふ……お優しいんですね、アルヴィス様は」
「……優しい? お前、本当に耳の病か。俺が言ってるのは『監視』だぞ。勝手に美化するな」
ユクは、「一人で出かけるな」という束縛を、「優しい」の一言で丸め込んだ。
屈屈なく微笑み、人の悪意を知らないおめでたさで、料理を続ける。
「療養中ですので……たんとお召し上がりください」
夕餉は、朝よりも少し控えめな、胃袋を満たしつつ休息に向かわせるものだった。
米、はんぺん、味噌汁、野菜の煮物……そして、鳥の照り焼き。
「ええと……お肉がお好きと、おっしゃっていたので……」
もじもじと、少し気恥ずかしそうに、アルヴィスの反応を伺う。
アルヴィスはそれを傍目に眺めながら肉を口に含んだ瞬間、皮の香ばしさと柔らかな肉の旨味が広がった。
それは、アルヴィスが知っている「生きるための肉」ではなく、誰かの体温をそのまま形にしたような、泣きたくなるほど贅沢な味がした。
「…………ッ。……ふん、まあ、食えなくはない。合格だ」
照れ隠しにそっぽを向き、口いっぱいに頬張る。
もじもじとこちらの顔色を伺っているユクの視線が、痛いほど温かい。
「……おい、ユク。お前も座って食え。俺を怪我人扱いして自分は立ち食いなんて、そんな気持ちの悪いことはさせるな」
アルヴィスはそこで気が付く。食卓には、椅子が一つしかない。ユクが一人暮らしなことを考えれば、当然のことだった。
思えば、アルヴィスはまだ、ユクが食事をしているところを見ていない。昨日も一人で薬膳を食べ、今朝も一人で朝食をがっつき、そして今も同じ食卓につこうとはしない。ずっと見張られているようで、急に居心地が悪い。
「ユク。お前、いつ飯を食ってるんだ」
「え……」
ユクは少し面食らったような顔をし、「アルヴィス様が召し上がった後、頂いていますよ」と笑った。
「なら、ここで一緒に食え。見張られているようで気持ち悪い」
「見張るだなんて、とんでもない!」
そしてアルヴィスは大股を開き、自らの太ももを豪快にパシンと叩く。
「座る場所ならあるだろう、ここに」
「え……!?」
ユクは突然の申し出に、顔を赤くした。
「そ、そんな……はしたないですよ、アルヴィス様……!」
「椅子が無いのだから仕方がないだろう。ホラ」
あせあせと縮こまるユクににじり寄れば、ユクは観念したように「い、椅子ならあります!」とどこかへ逃げてしまう。
しばらくすれば、つくりの違う、黒い丸椅子を引っ張り出してくる。
「こ、これは……診察をする際、患者様に座っていただくもので……」
ごにょごにょと、誰に対してか言い訳を並べる。
アルヴィスとしては……本当に膝に乗ってもらっても構わなかったのだが。
ユクは未練がましくアルヴィスの指示通り椅子を置くと、自分の食事を持って、着席した。
「……」
米、味噌汁、野菜の煮物。
「は?」
以上。
アルヴィスの献立よりも2品少ない上に、米も石ころくらいの量しか盛られておらず、味噌汁も見るからに水で嵩増しされており、濃度が薄い。
「おまえ……! 身なりも貧相なら、飯も貧相なのか!?」
「こ、これくらい……! 普通でございます!」
「なぜ肉もこの白くてうまい雑巾も無いんだ?」
「そ、それは雑巾ではなく『はんぺん』でございます! あ、アルヴィス様は療養中ですので、栄養をつけないと……」
「なら俺も怪我が治ればこんなひもじい飯を食わにゃならんのか!?」
アルヴィスとて元々食事には頓着していなかったはずだが……ユクの作る食事の美味さにすっかり心を掴れていた。
殺し屋も肉体労働だ。栄養の大事さはわかっているつもりでいる。それなら薬師であるユクもわかっているはず……だと思っていたのだが。
「い、いいえ……その……アルヴィス様は……お身体も大きくて……必要な栄養も多いでしょうから……」
「……」
アルヴィスが無言の圧で睨むと、ユクは顔を真っ赤にして、うつむいた。
「も、申し訳ありません……。以前申した通り……うちは裕福ではありませんので……せめて私の分は節約できればと……う、うわぁ!?」
アルヴィスは有無を言わさず、ユクを膝の上に乗せた。黒い丸椅子が、カランと音を立てて倒れる。
「アルヴィス様……!?」
「黙れ。……クソ、食い切って無くてよかった。ホラ、口開けろ」
ユクは、その骨格や声の低さから成人していることはうかがえる。だがこの発育の悪さは、栄養が足りていないせいではないか? と思い至る。
肉は薄く、腹をまさぐれば肋が浮いていた。
ユクがあらかじめ一口大に切って出した照り焼きを箸で器用につまみ、ユクの口元へ運ぶ。
「ほら、食え。俺を拾ったこと……もう後悔したか? 俺は……一度掴んだ獲物は、死んでも離さない主義なんだ」
ユクは差し出された飯を観念して口に含むと、もぐもぐと咀嚼する。
時折アルヴィスのご機嫌を伺うように見上げ、目が合うと顔を赤くしてうつむいた。
アルヴィスの目にはもう、出会った時の冷酷な敵愾心はなく、ただ一人の男としての、ひどく不器用で重苦しい愛情が滲んでいた。
この狭い食卓に、二人の呼吸が混ざり合う。
アルヴィスは、昨日の朝には死にかけていたはずなのに、今はこの「おめでたい薬師」の隣で、明日の食事はなんだろうかなんて、そんなのんきなことを考え始めていた。
「あはは、俺は獲物ですか? 太らされて食べられちゃうかも……なんて」
えへへ……と気まずそうに笑う。
ユクが引け腰になると、アルヴィスはなぜだか狩猟本能が刺激される。逃がすまいと腰に手を回し、耳元に口を寄せる。
「……冗談に聞こえてるのか? 本当に」
「……っ! ……」
わざと低い声で囁くと、ユクは目を細めて身体をこわばらせた。呼吸が慎重になる。息が上がるのを隠しようとしているのだということが手に取るようにわかる。
「食べられちゃうかも」なんておどけたつもりだろうが、こっちは本気で愛しつくしてやりたい衝動と戦っているのだ。無自覚な誘惑ほどタチの悪いものはないということを、わからせる必要がある。
「食え。命を救われたうえに、その主が栄養失調になったんじゃ寝覚めが悪い。とにかくこれからは、俺と同じものを最低でも俺の半分は食え。命令だ」
至近距離で伝わってくる、ユクの体温と薬草の匂い。
「……っ」
ユクは、顔を赤くして身を縮こまらせた。
アルヴィスの射抜くような視線に、息が詰まる。
肩に置かれた手が、急に大きく感じる。
「ひ、人は……食べられませんよ、アルヴィス様……」
アルヴィスの言葉の、真意を探る様に。
「えっと、人と人は、遺伝子が、近いため……、その……人肉食は病気が、感染ってしまう、と……」
視線を彷徨わせ、熱い瞳でアルヴィスを見上げる。とぼけたような説明は、冗談ならば笑ってくれ――そう懇願しているようだった。
「……っ、ふ、はは……!」
あまりの「おめでたさ」に、ついに堪えきれず、アルヴィスはユクの肩に顔を埋めて笑い上げた。
ユクの瞳が、揺れる。だがその揺らぎを、距離を取ろうとする仕草を見逃さない。
遺伝子が近い? 病気が感染る? この期に及んで、そんな医学的なお話で返されるとは夢にも思わなかった。
「……バカか、お前は。本当に……救いようのない医学バカだ」
笑いすぎて疼く傷を片手で押さえながら、アルヴィスは顔を上げ、赤くなったユクの頬に唇を寄せる。
「誰が本当に咀嚼して食うなんて言った。……俺が言ってるのは、もっとこう……もっと、お前の全部を俺のものにするって意味だよ」
アルヴィスは、抱き寄せていた腕をさらに強め、ユクの身体を自分の方へと完全に引き寄せた。
逃がさない。この男がどれほど無自覚で、どれほど腑抜けだろうと、ユクの平穏な日常を「食い散らかす」ことに変わりはないのだ。
「……ユク。さっさと飯を食うか、それとも飯を食う暇もないくらい、俺に可愛がられるか……今すぐ選べ。俺は今、お前のせいで死ぬほど機嫌が悪いんだ」
「……!」
ユクの息が詰まる。
捕食者の視線に絡め取られ、体全体が不可視の鎖で縛られているようだった。
……唇が、近い。息をついたら、当たってしまいそうなほど。
身体が熱いことが、バレてしまう。
「あ、アルヴィス、様……」
キョロキョロと視線を彷徨わせ、ふと、目が合う。ユクは、顔をリンゴの様に真っ赤に染めた。
「……っ、……」
いけません、と。言わなければいけないのに。お食事中ですよ、と。そうしてアルヴィスに普通の「日常」を教えてあげるはずだったのに。
知らない熱に浮かされてしまい、判断力が鈍ってしまった。
「アルヴィス様……。あ、熱い、です……」
「……熱い? ああ、そうだろうな。俺もだ」
アルヴィスは喉の奥で低く、愉しげに笑う。
ユクはリンゴのように赤くなって、アルヴィスの腕の中で心臓を早鐘のように打たせている。
「距離」など取らせない。追い詰めた獲物は意外にも従順で、どこから食ってやろうかと計画を練り始めている。
「また『いけません』か? 言いたいなら今すぐ言え。俺の唇がお前のそれを塞いで、何も言えなくしてしまう前にな」
逃げ場を失くすように、空いた方の手でユクの後頭部を支え、逃げ場を完全に塞ぐ。
笑止千万。俺が教えてやりたいのは、安らかな眠りでも、規則正しい食事でもない。誰にも触れさせたくないほどの執着と、その身を焦がすような熱のやり取りだ。
「……ユク。お前はもう、ただの薬師でいられると思うな。俺の熱を浴びて、俺の色に染まって……そうして俺なしじゃいられない身体にしてやる」
そう囁きながら、アルヴィスは耐えきれずにその震える唇を、啄むように、けれど深く、奪い去った。
薬草の苦い匂いではなく、ユク自身の体温が甘く口内に広がる。
一瞬の静寂の後、アルヴィスはユクの腰をさらに引き寄せ、椅子の上で崩れそうになる彼の身体を、壊さない程度の力で、けれど容赦なく抱きしめた。
「アルヴィス、様……♡ これは、これは一体……♡」
「教えてやるよ、ユク」
蕩けた声を漏らすユクの腰を、逃がさないよう強く、けれどどこか愛おしむように引き寄せる。
「これは、お前が拾った『呪い』だ。……お前の温もりを知って、俺の中の化物がお前の全部を欲しがって暴れてるんだよ」
アルヴィスは手際良くユクに食事を与え、食卓を空にしてからユクの身体を横抱きに抱え上げる。
隣の寝室へと向かって一歩を踏み出した。
腕の中の「獲物」は、もうすっかり捕食者の熱に毒されて、逃げることも忘れているようだった。




