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『あの世界』の常識に巻き込まれていく話  作者: 渡しログ
カラフルな『あの世界』
541/561

6.5.29


 昼を過ぎてから。

 わたしは、メモリアへ行った。


 すぐ近くの家に寄って、レクサムコンフィからモモを受け取る。

 自分で選ぶかと聞かれたが、良し悪しなんて、見てもわからない。

 兄弟に任せた。



 今日も受け取ったのは10個のモモ。それと5個のレモン。

 拠点に戻り、それをハンナとミシェルに手渡した。


 昨日のモモも、まだいくつか残っている。

 なので、切り分けて、大工さん達への差し入れ。

 ムキマッチョの大工さんたちが、美味しそうにモモの切り身を口にいれていた。



 その後は、川の水を汲んで野菜を洗ったり。

 使い終わったナイフやボウルを洗ったり。

 ミシェルたちのお手伝い。

 今日は、邪魔者扱いされなかった。

 なんだか、認められたような気がして、ちょっと嬉しい。


 と思ったけど、たぶん違う。

 フリッツもミシェルも、そこまで気が回らないようだ。


 タデクが戻ってこないのだ。

 タデクの心配をしているわけではない。

 戻ってこないということは、ジビエのヤマシギの準備ができない。

 下処理の準備時間を考えると、もう限界らしい。



 しかたなく、ミシェルは、アカジカを使った下準備を始めた。

 しばらくは、残念そうな顔をしていたが、それも数分だった。

 アカジカの状態も悪くないらしく、いつのまにか、いつも以上に軽快にナイフを振るっていた。


 ソースの確認が必要だというので、わたしも試食に呼ばれている。

 部位は、そこそこ、いい部位で代用する。

 二つ星レストランで注文したら、ふた桁に近い数万円だろう。

 もちろん、明日の部位は、めちゃくちゃいい部位を使う。


 まもなく香りだしたのは、頭がおかしくなりそうなほどの、ローストお肉のいい匂い。


 その匂いにつられて、大勢の見知らぬプレイヤーが立ち止まり、焚火の調理場に目を向けてくる。


 ミシェルは小太りのおじさん。

 料理人の見た目はパっとしないけど、匂いは目立ち過ぎている。

 でも、フリッツや、アルベールは気にしていないようだ。

 むしろ、これでいいらしい。

 周囲に垂れ流すこの匂いも、オープン前の宣伝になるらしい。

 おかげで、わたしのおなかも、だいぶ前から鳴りっぱなしだ。

 もう咳とかで誤魔化すのもヤメた。

 この音も、シェフへの声援と催促だ。


 呼ばれたのは、わたしとルシア。

 ディルはと聞いたら、ログアウト中らしい。


 代わりにフリッツが席に着く。

 サーブするのは、ミシェル本人。


「モモ肉の串ロティ、アカジカのジュドセールソースです」


 串は刺さっていない。


 小ぶりとは言えないサイズのモモ肉が3切れ。

 外側は樹木のように、黒ずんだ褐色。

 内側は桜色に包まれた、鮮やかな朱色。

 かけられたソースの見た目は、使い込まれた潤滑油が思い浮かぶ。

 なのに、立ち昇る香りが、食欲の雪崩を引き起こしていた。


 付け合わせの野菜は、ニンジンとホウレンソウ。

 ここにも、肉汁とソースが、ねっとりと染み込んでいる。


 フリッツが両手を広げ、わたしとルシアに、お先にどうぞと促した。


 ナイフをあてると、スっと沈む。

 ひと口サイズに切り分けて、フォークでつまんで口にいれる。


 ジビエの臭みはまったく感じない。

 弾力があるのに、少しの圧力で肉汁が染み出した。

 少しムラのある焦げ付いた風味を感じるが、それがジビエらしさを、いっそう引き立てていた。


 そのあとに数秒間だけ湧き上がる不安と罪悪感。

 なぜわたしは、こんな美味しいものを食べているのか。

 こんなものを食べてしまって、いいのだろうか。

 どうして、こんなことになっているのか。


 でも、ナイフとフォークの動きを止めることはできない。

 残りのお肉を、次々と切り分け、口の中へと運んだ。


 肉が消えると、バターが香るガルニチュール。

 ニンジンとホウレンソウのソテー。

 たまらなく美味しい。

 ご飯がほしい。

 このニンジンとホウレンソウだけで、ご飯が食べられる。


 ルシアが言った。

「絶品……だわ」

 ルシアのお皿は、ソースの残骸だけ。

「これなら、明日のディナーも、問題なさそうですね」

 フリッツのお皿は、真っ白だった。



「マドモワゼル」

「うん?」

「ちょうどよい機会ですので、フォークとナイフの使い方をおさらいしておきましょう」


 ああ……そうだった。

 そんなこと言われていたのを思い出す。


 食べるのも、食べ方を教わるのも、ギルドマスターの仕事。


 それから、その夜は、眠くなるまでテーブルマナーのお勉強。

 フリッツも忙しいだろうに。

 ほっといてくれていいのに。



 そして、今夜も、ホテル・フリッツのスィートルーム。



 テーブルの下で、わたしは眠りにつく。




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