6.5.12 - グラスは3つ
おじさんがポンとコルクを抜く。
そして、トポトポと、グラスにワインを注ぐ。
透明感のあるセピア色の液体。
ワイン臭に混じる、若々しいリンゴの匂い。
青りんごのような香りがする。
グラスは3つ。
2つは、わたしと、アルベールの前。
もうひとつは、事務机の上。
最後に、そのグラスにワインを注いで、事務机によりかかりながら、おじさんがグラスを持ち上げた。
「ツム、ヴォール」
( Zum Wohl )
最初におじさんが、口をつける。
「ツム、ヴォール」
そのあとから、アルベール。
香りだけは呑めそうだ。
ひとくちだけでいい。
おそるおそる、口に近づける。
爽やかな青リンゴの香り。
そこまでは、ジュースな気がする。
でも舌にのせると、やっぱりワインだった。
しかもこれ、リンゴじゃない。
辛い……染みる……
そして咽る。
やっぱりムリ。
でも、わたしは令嬢。お姫様。
自由にしていいんだよね。
このワインの扱いも、いつもどおりでいいんだよね。
「フリッツ」
「はい、姫殿下」
マドモワゼルじゃなかった。
「フリッツも、呑む?」
少し詰まってからの、フリッツの返答。
「……よろしいのですか?」
「とっても、美味しいよ」
味わかんないから、たぶんだけどね。
「それでは、失礼いたします。閣下、頂戴いたします」
「ッフフ。好きにしたまえ」
フリッツにグラスを渡した。
手のひらにグラスを乗せたまま、また直立に戻る。
アルベールが言った。
「閣下。ミキ姫殿下の時代の日本では、二十歳を過ぎるまで、アルコールの摂取を禁じられています」
「ほう。喉が渇いたら、なにを呑むんだ?」
「水か、アルコールの入っていない、サイダーかネクターでしょうか」
「そうか。なら次は、ご令嬢のために取り寄せておこう」
「恐れ入ります」
ふぅ。部屋が静かになった。
なにしにここに来たんだっけ。
アルベールが口を開く。
「閣下。ギルドへの出資の件ですが」
「そうだな。そのハナシだったな。いくら必要なんだ」
「ひとまず、1千万ジェノ」
「さすがにそれはムリだ、アルベール」
いっせんまん?
えっと、1ジェノって10円くらいだよね。
だとしたら……
1億……円?
「まぁしかし、令嬢もお出でになっていただいた。そうだな、ひとまず1カ月分の事業費なら出してやろう」
アルベールが斜め後ろを向く。
「フリッツ」
「はい。ざっと500万ジェノもあれば、充分かと」
おじさんが、鼻から息を出してから言った。
「宮殿でも建てるつもりか、アルベール」
「ご令嬢の御住居とその店舗です。最低限の体裁は整えたいつもりです」
「……ご令嬢に、ひとつお伺いしたい」
「はい」
「いずれ知恵へ旅立たれるとのことだが、ご両親はご健在なのか?」
これはウソじゃない。たぶん……
「うん。父上も、母上も、知恵にいる」
「そうか。知恵には入れてもらえそうか?」
「うーん、行ってみないとわからないけど……知ってるヒトに会えれば」
「ふむ……」
おじさんは、机に寄りかかったまま、地面を向いて考え込んだ。
しばらくすると、顔を上げて、わたしの目をのぞき込む。
「200万ジェノ。最初に出せるのは、それが限界だ。だだし……」
そのあと、アルベールに視線を向ける。
「口約束だけではダメだ。そうだな……試食をさせろ。場所はこのテントだ。できるか?」
アルベールは、おじさんに視線を向けたまま言った。
「フリッツ」
「はい。それでは閣下にお尋ねします。ご予約は何名といたしましょうか」
「……3人だ」
「かしこまりました。厨房はございますでしょうか?」
「焚火しかないが、可能か?」
「問題ございません。準備に4日ほどいただいてもかまいませんでしょうか?」
「いいだろう。では5日後としよう。場所はこのテントだ」
「かしこまりました。もう2~3、お伺いさせていだきます」
「なんだ?」
「お客様の中に、アレルギー等はございますでしょうか……」
フリッツもすごいなぁ。
物怖じしない。
フリッツが、おじさんに質問し、おじさんもそれに応えている。
普通に、レストランの予約の受付をしている。
「5日後のディナーのご予約、確かに承りました。なにかございましたら、いつでもお知らせください」
「ああ。わかった。よろしくたのむよ」
話しが、終わった。
思っていたよりも、あっさりと?
帰り際。
「ああ、そうだ、ご令嬢」
「はい?」
「5日後の夜、ご令嬢をディナーに招待したい。いかがかな?」
どういうわけか。
わたしは、すぐに反応した。
顔を傾けながら、スカートの両端を摘まんで、腰を屈める。
わたしは、笑顔が得意。
ベストアングルも把握している。
毎朝、練習してるからね。
「はい。喜んで」
おじさんも、わたしの笑顔を見て、目を細めてにっこりと微笑んだ。
教頭先生の作り笑い。
悪い気はしない。
でも、怒られないように、細心の注意を払う。
みきは、それも得意。
みきは、誰でも、どの先生にも好かれる、いい子だからね。
楽勝だ。




