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『あの世界』の常識に巻き込まれていく話  作者: 渡しログ
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5.1.06 - 出航


 買い物を済ませた、未希達が戻る。


 代金は、全部、ルシアが払ってくれたらしい。

 それでいい。ルシアはたぶん、オレより稼いでいる。



 地図を辿り、大通りを横断。

 スマホのアプリが、オレ達を薄暗い路地へと誘導する。


「おい、ルシア。本当にここなのか」

「そうよ。先月くらいにも来たから。ここからなら分かるわよ」


 路地から、さらに狭い裏路地へ。

「ここよ」

「ここよっておまえ……」


 なんのことはない。

 そこはただの、釣り船屋だった。


 未希が、店の看板を見上げた。

「すごーい。こんなところに、釣り船屋さんなんてあるんだね」


 ルシアが歩いていくので、オレ達もついていく。

 魚臭い路地。その脇の通路のような隙間。

 奥のガラス戸から、灯りが漏れていた。


 ルシアが、そのガラス戸をガシャガシャと叩きながら言った。

「グーテンアーベント?」


 今度は、何語だよまったく……


「ドイツ語?」

 未希が呟く。


 なんでこんな釣り船屋でドイツ語なんだ。

 さすが、横浜というべきか。

 それともこの釣り船屋が異常なのか。


 ガラガラとガラス戸が開く。

 いったいどんなヤツが出てくるのか。


 身構えたが、出てきたのは清潔そうな、日本人の爺さんだった。

 ニコニコと皺だらけの表情で、ルシアと会話している。

 なにを言ってるかサッパリ分からない。


「未希、なんて言ってるんだ」

「よく来たねとか、お腹空いてる? とかそんな会話」

「ドイツ語なのか?」

「うん。お爺さんのは、ちょっと分かりにくいけど、ルシアさんのドイツ語はすごく綺麗」


 サラッとした白髪の爺さんが、ガラス戸から身を乗り出し、サンダルを履く。

 見た目の年齢のわりに、がっしりとした体躯。

 海の男。というより、海の爺さんだ。

 ズリズリとサンダルを擦りながら、オレ達に歩み寄った。


「いらっしゃいー。ずいぶん、お友達つれてきたじゃんか」

 日本語。しかも横浜弁。

 未希が、ふわっと、頭を下げる。

「こんばんわ。お邪魔します。おじいちゃん」


 爺さんのニコニコ顔が、ますます崩れた。

 ウソでも、作り笑いでも。なんでもいい。

 未希の笑顔が、オレとストームの不愛想を帳消しにした。


「あいよ。こっちだよ。ついておいで」


 爺さんが、またサンダルを擦りながら、奥へと歩いていく。

 そのあとをルシアが追う。

 オレ達も、それに続く。


 建物の裏は、運河だった。


 首都高の橋の下。

 ああ、もしかして。

 キャプテンて船長のことかよ。


「おい、ルシア。おまえが泊まる、橋の下ホテルはどこだ」


 タップンタップンと、音を立てて数隻の釣り船が浮かんでいる。

 ホテルはおろか、民宿すらも見当たらない。


「目の前にあるでしょ。ハンモックに揺られるみたいで、快適なのよ」


 ルシアの真後ろに架かる高架道路から、トラックやバイクの唸り音が、響き渡っている。


「……まぁいいよ。逆に安心したよ。で、あの爺さんはなんだ」


「私の、ひいお爺さんの頃のお友達なんだって」

「そんなの、もう他人だろ……大丈夫なのかよ」

「日本人は、みんないいヒトよ? ソウジくらいじゃない。疑り深いのは」


 爺さんが、タンと音をたてて、船に乗った。


「ほぃ、お嬢ちゃん。手ぇ伸ばしな」

「えっ……船乗るの? すごぉい!」

 未希が嬉しそうだ。

「わたし、酔うかも……」

 いつの間にか、オレの後ろにストーム。

 喋らないと、どこにいるのか忘れる。


「ちょっと沖に出るだけだろ」

「んん……」


 爺さんの手を借りて、まず未希が船に。

 そのあと、ストーム。

 その次がルシア。


 爺さんは、オレには手を貸してくれなかった。

 しかたなく、船に飛び乗る。


 ザバザバと、小さな波が船体を撫でる音が聞こえる。

 爺さんは、あちこちに縛られたロープを解いていく。


「なんだい。お嬢ちゃんら、おやつ持参かぁ」

「うん。近くのストアで買った」

「そうか。昔ぁ、あそこホテルでなぁ。異人さんがよく泊ってたんだよぉ」

「へー。どんな異人さん?」


 爺さんが操舵室へ。

 そして船のエンジンを掛ける。

 水底から、船がいななくような、振動と低い轟音。

 爺さんは、近くにいる未希と会話しているように見えるが、なにも聞こえない。


 そして、船が動きだした。

 未希が船のヘリにつかまり、水面を眺める。


 轟音のわりにはゆっくり、プカプカと。

 小刻みに揺れる船体が、岸壁から斜めに離れていく。

 オレも、水面に視線を落とす。

 なんだか、遊園地のアトラクションのようだ。 


「おにいちゃん!」

 突然、未希に怒鳴られた。

 クビを捻ると、真横に未希。


「なんだ」

「これ! 上げてくれって!」

「どれだ」

「これ!」


 ああ、分かったぞ。

 船体の脇にぶら下がってるコレ。防舷ブイ。

 黒ずんだオレンジ色っぽいサンドバッグのような形のブイ。

 それが2つ、船の横に垂れ下がっている。


 そのブイを指差して、爺さんの方を向く。

 右手を丸めてオッケーの形を作ったあと、指で上げろと合図。


 オレは、防舷ブイを引き上げる。

 なかなか重い。

 そして、海臭い。

 そのまま床に転がす。


 2カ所なので、2カ所とも。


「おにいちゃん、すごいね! 船うごいてる!」

 そりゃ動くだろ……エンジンかけたんだから。


 ストームはどうしたかと、視線を向ける。

 釣り用のベンチに腰を下ろし、両手でお腹を押さえながら、口も目も力いっぱい閉じている。


 その横にルシア。片手にペットボトルの水を掴んでいる。

 コミュ障のストームに話しかけているようだが、エンジンの音がうるさくて、ここからじゃなにも聞こえない。


 ストームが、いつ吐くのかと思ったが、船は間もなく停止した。

 エンジンの音が止み、静かになった。


 操舵室から出てきた爺さんが言った。

「これ以上沖に出ると、怒られっからよぉ」


 船はマリーナを出る直前の端っこで停船した。

 右横に、平積み用のバージ(=はしけ)が停泊し、すぐ近くに本牧ふ頭の岸壁。

 爺さんの釣り船は、その岸壁とバージの影に、隠れるように停泊している。

 灯りは点けずに、アンカーだけ下ろして、暗闇の中で船を固定した。


 未希とルシアが、ストームを囲んでいる。

「まゆさん、大丈夫?」

「んん、落ち着いた」

「お水飲む?」

「お茶がいい……」


 船が動いていたのはたぶん4~5分。

 それでも、景色は一変した。


「まゆさん、見て。すごい綺麗」

「うん……すごいね」


 横浜港の方に視線を向けた。

 夜景も夜空も、邪魔するものは、なにもなかった。

 ほぼ暮れかけた夜空の下で浮かび上がる、横浜港の夜景。


 これをなんと表現したらいいんだろうか。

 すぐ真後ろには、ベイブリッジがある。

 そこからでも、少し高いところから同じ夜景も見えるんだろう。

 でも、これは違う。


 いちばん低いところから眺める横浜港の夜景。



 それは、暗闇の底から立ち昇る、陽炎のようだった。




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