4.8.12
助手席の窓の向こうで、ルシアがなにか言っている。
聞こえない。
腕を伸ばして、助手席のドアロックをつまみ上げた。
ルシアがそのドアを開ける。
「クックゥ、ソウジ。元気してた?」
「まさか、おまえが今日の店長か?」
「店長?」
「……まぁいいよ。遅刻だぞ、早く乗れ」
ルシアがクルマに乗り込み、ドアを閉める。
「半ドアだ」
ルシアがドアを閉めなおす。
「まだ、半ドアだ」
ルシアが親の仇のように、力いっぱいドアを閉めた。
狭い車体が、グラっと揺れる。
いつの間にか、コンビニで買ってきたような、日焼け止めクリームの匂いが、車内に充満していた。
タバコ臭いよりはマシだ。
「ふぃお~ぅ、クーラーわぁ?」
ルシアがドアハンドルを回して、助手席の窓を開けた。
ポンコツトラックには文句を言わないようだが、暑いのには我慢できないらしい。
それでも、運転席と助手席とで、風の通りができたのか、やや涼しい風が吹き抜けていく。
キーを回し、エンジンを掛ける。
3回目のセルで、エンジンが回った。
窓全開なので、うるさい。
クーラーか。
あるのかな、このクルマ。
中央のパネルに視線を向ける。
赤と水色のレバー。水色のマークのついたスイッチ。
エアコンはあるようだ。
水色全開にしてスイッチを入れた。
送風音とともに、噴き出てきたのは熱風。
逆なのかもと、レバーを赤い方に動かしてみると、さらに強い熱風。
水色全開に戻した。
しばらく待っていたら、冷たい風になるんだろうか。
「行くぞ」
「ウィッ」
ギアを入れる前に、シートベルトを締める。
「おい、ルシア」
シートベルトに指を向けて、ルシアにも締めろと促す。
基本的に、オレは徹底的な安全運転を心がけている。
速度は、いちばん遅い流れに合わせる。
信号無視もしない。一時停止も完璧に守る。
歩行者、自転車最優先。クラクションは絶対に鳴らさない。
パトカーと同じ領域での安全基準の順守。
それが、デキる裏社会人の常識だ。
溶け込むこと。それが最優先。
余計なことで、公務員の目を引きたくないのだ。
クラッチを踏み込んで、ギアを1速に入れる。
アクセルをふかしながら、サイドブレーキを下ろす。
固い。
このサイドブレーキ、固すぎる。
勢いをつけて、サイドブレーキを叩き下ろす。
勢いあまって、左足がペダルからズレた。
車体がガコンと揺れ、エンジンが停止した。
クラッチを踏みなおし、ブレーキペダルを踏む。
「ねぇ、ソウジ。あなたクルマの運転できるの?」
「できるよ」
「免許は?」
「……あるよ」
「……ならいいんだけど、事故はイヤよ?」
ウソは言っていない。
運転はできる。
免許証も昨日届いた。
年に何度か、仕事でクルマを運転することもある。
ちなみにオレは、無事故、無違反だ。
そこいらの優良ドライバーよりも、オレは優良だ。
「数カ月ぶりだから、ちょっと練習しただけだ。いくぞ」
「……うぃ」
発進の手順を繰り返す。
サイドブレーキは下りたまま。
今度は上手くいった。
駐車場から出ようと、ハンドルを切る。
ハンドルが恐ろしく重い。
まわすと、ギギッと軋む音。
なんだこのハンドルは。
4つのタイヤそのものの重みと、油不足のハンドルの軋みが、そのままのしかかっている。
このハンドルの重さは、これまで運転してきたクルマの中でも最上位だった。
サイドブレーキといい、ハンドルといい。
このクルマは、まさに筋トレマシーンだ。
マッスルカー。その言葉がまさにピッタリだ。
アクセルを軽く踏み込み、駐車場を出て、2車線道路に乗る。
スピードが乗ってくると、窓から入り込む風が心地よかった。
目的地までは、15分くらい。
さっさと、向かおう。
ルシアは、ラジオを操作している。
スイッチを入れて、すぐに流れてきたのは競馬中継。
日本語が分からないルシアは、すぐにチューニングを回した。
いくつかの話し声とノイズを繰り返し、古い洋楽のところで止めた。
アコースティックギターとベース。端切れのいいドラムのリズム。伴奏にのって、ホテルだカリフォルニアだのと、英語の歌詞。
左折のために、左のドアミラーに視線を投げると、窓の外を眺めるルシアの黒髪が、風になびいていた。
その向こうには、荒川の土手。
ルシアがふらっと、こちらを向く。
「ステキなドライブになりそうね。ソウジ」
馬鹿なことを。
信号待ちでクルマが停まると、風も止む。
いつまでたっても、熱風しか吹いてこないエアコンのスイッチを切った。
ルシアが膝を叩きながら、うめき声をあげた。
「ふぃお~ぃ、暑い!」




