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4.5.9 - 感覚と意識


 地面に座って、コップのオレと見つめ合っていた。

 そのままどれだけ時間が経ったか。


 コップを揺らすと、歪むだけだった表面ではなくなり、波紋が見えるようになっていた。

 最初は実物のように見えていた鏡面が、今は、反射の強い水面だと認識できる。


 理屈も、原理もわからない。

 コップの水にかけられた「全ての光を反射する」という異常状態が、ただの水面に、時間をかけて戻ろうとしているようだ。


 ストームは、それを視覚ではなく、意識で感じろと言っていた。


 まったく分からない。

 時間だけが過ぎていく。

 うっすらと、コップの底の木目が見えてくる。

 夜の星を追いかけているような気分だ。

 ただノロノロと、コップの水の微かな変化を眺めるだけの時間。


 反射するオレの顔を見ていても、透かして見えてくるのは、くだらない過去の記憶ばかり。


「おにいちゃん、なんか掴めた?」


 振り向くと未希。

 片手にバスケット。

 中には、トーストのサンドイッチが並んでいる。


「いや、なにもわからないよ。本当にこれで魔法がわかるのか」

「まゆさんも、だいぶ苦労したみたいだよ」

「そうか」


 未希がバスケットを下ろし、オレの隣に座った。

 バスケットの中のサンドイッチを掴んでオレに向ける。

 ふわっと、未希の匂いが押し出されてくる。


「はい。お昼ご飯」


 茶褐色でパリっとしたトーストに、粗く潰したゆで卵とレタスが溢れそうに詰まっている。

 トーストの内側は、緑色のソースが染みていた。


 受け取って、口に頬張る。

 ザクッと音をたててトーストを噛み砕く。

 中からオリーブのようなコク。

 その後に、レモンの酸味とパセリの香りが広がっていく。

 野性味のある歯ごたえのあるレタス。

 ふわりと絡みつくゆで卵の舌触り。

 すべてが絶妙に自己主張を繰り返し、喉の奥へと落ちていく。


 見た目は単純だが、手間をかけた味だと分かる。

 食べ応えも充分だった。


「うまい」

「えへへ、よかった」


 未希は、膝を抱えて、からだを揺らしながら池を眺めていた。

 バスケットの中には、まだサンドイッチが並んでいる。


「食べないのか」


 咀嚼しながら、未希の顔を見る。

 なにがそんなに嬉しいのか、頬を緩めたまま目を細めている。


「なんかね、見てるだけでお腹いっぱい」


 未希が、唇をぎゅっと結ぶ。

 抱えた足の両ひざに顔をうずめた。

 腕に力が入っているのが、見た目にも分かる。

 ゆらゆらとカラダを前後に揺すりながら、つま先をくるくると回している。

 両ひざの奥から、全身から、クスクスと未希の笑い声が漏れ出ている。


 こんな穏やかな場所で、未希と並んで座っている。

 何年ぶりだろう。


 いや、初めてか……

 

 手にはサンドイッチ。

 傍らには、ランチのバスケット。

 ふたりで陽だまりに浮かぶ池を眺めている。


 なにかが、オレの奥の扉を開けようとした。


 ヤメてくれ。開けないでくれ。

 ベストの襟を掴む。心臓が荒れ狂っている。

 呼吸が乱れる。


 おさまってくれ。

 未希に気付かれたら、心配されてしまう。

 ハッとして、顔を上げた。

 首を捻って未希の顔を見る。


 未希は、膝を抱えた態勢のまま、静止していた。

 顔もうずめたまま。

 でも、笑い声は漏れてこない。


 いつかの……くたびれた老犬のような未希の顔が、脳裏を通り過ぎて行く。


 オレが未希にしてやれること。

 何もしてやれなかったこと。


 今なら何か、できそうな気がする。

 でも、なにができるのか。わからない。


「おにいちゃん?」


 いつの間にか、未希もオレを見ていた。


 いつもの未希に戻っていた。

 バカっぽいが落ち着いていて、取り繕ったような笑顔の未希。

 さきほどまでの、全身を使って喜んでいる未希の姿は、消えていた。


 その顔を見て、オレも急に気分が落ち着いた。


「もういっこあるよ。はいっ」


 未希がまた、トーストのサンドイッチをオレに向ける。

 こんどは、卵ではなく、ベーコンが挟まれている。


 それを受け取る。


「みきも食べよっと」

 バスケットの卵サンドを手に取って、頬張り始めた。


 オレも、齧り付く。


 味が分からなくなっていた。


 込み上げてくる重たいなにかが、オレの五感を押しつぶしている。

 それでもそのまま、サンドイッチを口に押し込む。


 しばらくのあいだ、ふたりで黙って、サンドイッチを食べていた。

 食べ終わると未希は、カラになったバスケットを提げて、立ち上がった。


「じゃあね。がんばってね。おにいちゃん」


 それだけ言うと、背中を向けて立ち去っていく。


「未希」

「うん?」


 声と言うより、吐息のような返事。

 振り返らず、立ち止まっただけ。


「また、ふたりで、おまえのサンドイッチを食べよう」



 未希は振り向かなかった。

 バスケットを持たない方の手で、顔を擦っている。


「うん」


 背を向けたまま、未希は戻っていった。



 視線を池に戻す。

 未希とふたりで、ただサンドイッチを食べただけ。

 ドロドロのヒューマンドラマを2時間見たあとのように、心が疲弊していた。


 ふと、傍らの木のコップに目が止まる。

 持ち上げて、中を覗くと、心を失ったような無表情の男の顔。

 疲れているようには見えないが、胸の奥ではまだ、なにか黒いものが燻っている。


 目を閉じると、目蓋の奥にオレの顔。

 波打つように、歪んでいる。


 それが、だんだんと薄くなって、ただの闇に塗り替わっていく。

 

 オレはここで、何をしてたんだっけ。


 コップを地面に放り投げ、そのまま仰向けになった。

 目をあけると、空と雲。


 しばらく眺めて、また目を閉じる。


 オレの顔が浮かぶ。

 だんだんと色を失い、闇に変わる。


 ふいに、稲妻のような光が、目蓋の中を駆け抜けた気がする。



 ……



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