3.1.04
「あ……あんた……だいじょぶか?」
日本語だ。
男は日本語を喋っていた。
異変にようやく気が付いたのか、牛車のほうで、赤ん坊が泣き出していた。
老婆も、牛車を降りてオレに近づく。
腹を見ると、切り裂かれたのは皮1枚。
腹部の怪我と出血は大した事なさそうだ。
酷いのは尻だろう。
尻の右半分から、鈍痛と、酷い出血。
男は、腰に下げていた水筒のようなものを手に取ると、そこからじゃばじゃばと、オレの尻に琥珀色の液体をかけた。
液体からは、パンの匂い。それと酒臭い。
そして、めちゃめちゃしみる。
歯を食いしばり、悶え苦しみそうなほどの痛みをこらえる。
老婆が、牛車にもどり、ごそごそと布を手に取ると、オレの尻にそれを押しあてた。
「ルボンス、長い布切れ、もう1枚取っておくれ」
と、老婆が言う。
「お、おう……」
男は、牛車から、薄汚れた大き目の生地を取り出す。
「押さえてるから、巻きつけろ。ほれっ」
男が生地を、オレの尻から腰にかけて巻きつける。
赤ん坊は、好き勝手に泣き叫んでいる。
その泣き声すら、傷にしみる。
めちゃめちゃ痛い。
やがて、男が、布をきつくしばると、少しだけ痛みが引いた気がした。
「まだ酒のこっとるか、もう少しここ」
と、老婆が指示し、男は、巻いた布切れの上から、右の尻に酒を垂らした。
それが終わると男は言った。
「助かったよ。あんたは命の恩人だ」
笑いが、こみあげてくる。
命の恩人は、オレじゃなくて、そこで泣いてる赤ん坊だよ。
口には出さないが、薄笑いを零すと、男も老婆も少し安心したのか、緊張した顔が緩んだ。
「あんた、何もんだ? 言葉はわかるか?」
言われて気づく。まだ、ひと言も喋っていなかった。
「ああ、わかる。あんた達に頼みがある」
「なんだ? なんでも言ってくれ」
「助けてくれ」
沈黙のあと、先に噴き出したのは老婆だった。
「ブッ……あははは」
男も、へらへらと笑顔を見せている。
「あんた、おもしろいねぇ、あはは。
にしても、あんな棒きれ1本でクマ倒しちゃうなんてねぇ」
「ああ、俺たちだけじゃ、みんな食い殺されてたよ」
男と老婆は、顔を見合わせて、なにか意思疎通をしたあと、老婆が言葉を続けた。
「構わないよ。あたしらの村は、すぐそこ。
手当するから、ついておいで。むしろ、そうさせておくれ」
ひとまず、痛みをこらえて立ち上がる。
だが痛すぎる。
脚を動かそうとしたが、激痛がそれを拒む。
「あのクマは……死んだか」
「おぅ、ちょっと待ってろ」
と、男は斧を抜いて、クマにゆっくりと近づく。
「ほぼ死んでるな。鼻に刺さった枝が、木に激突した拍子に深く喰い込んだみたいだ」
そのあと、男は太いロープを取り出しクマを縛ると、そのロープを牛車に繋いだ。
このまま、けん引して持ち帰るようだ。
「今夜はクマ鍋だな」
と、老婆が言う。
僅かな差で、オレたちがクマのエサになるところだったというのに。
呑気なものだ。
オレは、歩き出そうとしたが、尻が痛すぎてムリだった。
特に右脚は、少しでも動かそうとすると、引き裂かれた尻が酷く痛む。
それに気がついた男が、オレを支えて牛車の端に乗せてくれた。
「ほんじゃ、いこうか」
老婆が、手綱で牛に指示を出すと、牛車は再び動き出した。
視線を落とすと、いつのまにか無き止んでいた赤ん坊が、オレの顔を見つめていた。
オレを踏みとどまらせた赤ん坊。
結果的に、オレはこの世界の住人との繋がりを得ることができそうだ。
この赤ん坊は、男と老婆だけでなく、オレのことも救った。
「おまえは、凄いやつだ」
赤ん坊のぷにぷにしたほっぺを指の腹で触れてみる。
すると、赤ん坊が、ケタケタと笑い返した。
餅肌というのは、こういうやつなのだろう。
しっとりとした肌ざわりと、弾力性のある皮膚。
「あんた、名前は?」
前を歩く男が、聞いてきた。
「ソウジだ」
「おう。よろしくなソウジ。おれはルボンス」
「あたしは、ガロム」
外国人か。
覚えにくい名前だな。
「よろしく頼む」
それにしても出血が多い。
おまけに牛車の些細な揺れでも痛みが走り回る。
少し意識が朦朧としてきた。
気が付くと、牛車の床板に血だまりができていた。
そこから立ち上る血の匂いと、パンと酒の匂い。
血だまりは少しずつ拡大している。
このままだと、赤ん坊を包む毛布についてしまいそうだ。
少し体を……
移動しようか……
……




