3.1.03 - クマ
ピッピッと、歯切れのよい、鳥の声で目が覚めた。
なんの鳥だかわからないが、羽は鮮やかに青く、白い胸元の端がオレンジ色の小柄な鳥だった。
ゆっくりとカラダを起こすと、鳥は、遠くへ逃げてしまった。
オレは中州で、目を覚ました。
陽は昇り始めたばかりのようで、遠くの空が曙に染まっている。
夕べ、あれだけ飛んでいた妖精達はどこにも見えず。
その姿を認めることはできなかった。
空気が少し肌寒い。
耐えられないほどではない。
昼間もまた、歩き続けることを考えると丁度よいだろう。
左手をたたいて、デバイスを呼び出す。
『 ELAPSED 00:13 』
現世は13分。
100倍なのでニフィル・ロードに来て、21時間半。
ずいぶん長い時間、禁煙している。
だが、朝の空気もすこぶる美味い。
とりあえず、オレは、まだ生きているようだ。
足元に転がっている枝を拾い上げる。
昨日、森で拾った槍、ならぬ杖だ。
杖でカラダを支えながら、中州から川岸へと渡る。
水に浸かるとさすがに寒い。
「川の水より安全かもしれない」
まゆから聞いた言葉を思い出し、葦についている水滴をあつめ、口の中を湿らせた。
カサカサになっていた唇を潤すが、喉を通る前に、口の中で消滅した。
歩きながら葦の葉を引き寄せ、喉を潤しながら、茂みを抜ける。
このまま下流へ進んでも、左右は森。
森の中はやめておこう。
川を下るのはここまでだ。
このあとは、平地を森沿いに歩くことにした。
そして、歩くこと数分。
思ったよりも早く、それを視界に捉えた。
ヒトだ。
2人の人間が、森の中を移動している。
独りは歩き、ひとりは牛のような動物に引かれる牛車に腰かけ、手綱を握っていた。
オレは、森に踏み入り、近づいて目を凝らす。
歩くのは男性、牛車を操っているのは女性のようだ。
2人の足元には、道が引かれ、森の奥へと続いていた。
女性は老齢で、60歳は超えているだろうか。
薄汚れたくすんだ青のウエストギャザーワンピースのような服。
髪の毛は白髪に染まっている。
その手前を歩く中年の男。
オレのと似たような亜麻のチュニックを着て、裾が泥まみれのこげ茶色のズボンを履いている。
肩にズタ袋を背負い、腰には手斧を下げていた。
髭も髪も、よく整理され、清潔そうに見える。
2人は会話もせず、黙々と、森の道を進んでいた。
牛のペースに合わせた足並みは遅く、あとをつけていくのは容易だ。
ぱっと見、危険は無さそうに見えるが、前回のこともある。
オレは、森の陰から、彼らの後を追うことにした。
それにしても、簡単な尾行だった。
なにしろ、他に通行人がおらず、信号もなければタクシーも走っていない。
ただただ、森の小道を、牛のペースで進んでいくだけだ。
2人がときおり、森の奥を気にするが、いまのところ一度も後ろを振り向かない。
オレはこの簡単な尾行を、しばらく続けた。
陽は昇り、朝から昼に差し掛かろうとしていた。
2人が、二言三言の会話をしていることに気がつく。
距離があるのでよく聞こえないが、日本語を話しているようにも聞こえる。
オレはもう少し距離を詰める。
20メートルくらいのところまで近づいたか。
そのときふと、道を挟んだ反対の森の中。
いつのまにか、オレと並走していた動物に気が付く。
体長は2メートル近くある。
深い体毛に覆われたこげ茶色。
四足歩行のずんぐりとした巨大な動物。
……クマか。
動物園でしか見たことは無いが、これほど大きな個体は見たことがない。
オレが立ち止まると、クマも歩みを緩め、進んでいた方向に回り込むように、のっそりとこちらに近づく。
顔は丸く、その上部に半円の小さな耳がふたつ。
その巨体に似つかわしくない、つぶらで小さな瞳がオレを凝視している。
じゃれようとしている訳ではないだろう。
オレという個体が、今日の昼飯に足る存在かどうか、目利きしているのだろうか。
それとも、単に、オレに脅威を感じ、排除しようとしているのか。
クマは視線を逸らしながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
あらゆる選択と可能性を頭の中で吟味する。
武器はと言えば、夕べから杖替わりに使っている1メートルほどの棒きれだけ。
ここで死んだら、未希を助けられない。
この局面で、命が助かる可能性を模索する。
どうする……どうするべきだ。
ふと、クマの片耳がピクっと動く。
先を進む農民の話し声が、風に乗ってこちらに届いた。
オレは、クマに正対したまま、走る体勢へと重心を変えた。
クマとの距離はもう10メートルかそこらだ。
今にも駆け寄ってきそうだ。
オレは走り出した。
どこへ?
決まっている。
あの2人の農民のところだ。
この脅威をなすりつける。
農民との距離は20メートルと少し。クマに追いつかれる前に、牛車までとどくだろう。
あとは、それを追い抜き、後ろを振り向かず、道を走り続けるだけだ。
オレは走った。
すぐに牛車に追いつき、駆け寄る。
異変に先に気が付いたのは、前を歩く男だった。
振り返ると「ヒィッ」と息を吸いこみ、引き攣った顔をした。
後ろからは、クマの走る音。
その時、走り抜けた視界の端。
牛車の荷物が眼に残った。
その荷物は毛布にくるまれ、毛布の端に小さな顔。
むちむちとした肌に日差しを浴び、気持ちよさそうに眠っていた。
それは、とても、とても小さな命。
瞬間的に巻き起こる命の天秤。
あれを見殺しにして助かる未希。助けるオレの命。
関係無い。
ここは仮想世界だ。
そして赤ん坊は、おそらく「NPC」だ。
あれはゲームのキャラクター。
それにどれほどの価値があるのだ。
考えたわけでもない。
そうしようと思ったわけでもない。
何かの結論に辿り着く前に、
オレは、踵を返して、迫りくるクマと対峙した。
距離はもう、いくらも無い。
男は背負っていたズタ袋を放り出して、腰を抜かした。
いまだ、状況を把握していない老婆は「あ、あ、わっ」
と、声をあげ、牛車の手綱を引く。
制御しきれず、牛で男を踏んづけようとしていた。
クマとの距離が2メートルを切る。
クマと戦ったことなんてない。戦い方など知らない。
武器はたぶん、巨大な前脚とその爪だろう。
予想しろ。
出し抜け。
オレは腰を落とす。
これで、クマは、オレの上半身から顔面を狙うと推測できる。
クマが間合いに入りペースが少しだけ緩む。
クマの右腕が宙に浮いた。
さらに腰を落とす、顎は地面すれすれ。
オレの頭を、クマの頭よりも低い位置まで下げた。
片膝と片手で、つんのめりそうな態勢を維持する。
クマの右腕が、横殴りから斜めへ切り裂きに変わり浮き上がった刹那。
両ひざと地面に置いた片手、そして全身を使ってクマの喉元にカラダを突き出した。
迫りくるクマの体毛。手触りがよさそうだ。
オレは持っていた棒きれをその喉元に突き立てた。
クマの体毛は温かく、驚くほど固く、分厚かった。
枝はほとんど、その皮膚を通らずに止まった。
そのまま、勢いに任せてクマを押し飛ばそうとしたが、びくともしない。
枝が、バキッと音を立てて折れた。
いくらかは刺さった気がするが、手ごたえは数ミリだろう。
オレはクマの体重に負け、膝を折ったうつ伏せの状態で押しつぶされた。
オレの尻に、クマの左手の感触。
爪が皮膚に食い込んでいる。
オレは左に転がり、クマの下から抜け出した。
尻に食い込んでいた爪が、オレの皮膚を引き裂いた。
顔を捻ると、クマの視線が、転がるオレを追いかけている。
後ろ脚と右前脚で体躯を支え、左前脚がオレの腹を狙って振り出された。
折れた枝の残りは、まだ右手にある。
オレは上体を捻りながら、右手の枝をクマの鼻づらに振り下ろした。
クマの爪がオレの腹の皮を切り裂いたが浅い。
枝はクマの鼻に、深々と突き刺さっていた。
「ブォッゴ……ッ」
と、岩が擦れるような低音の悲鳴を漏らしたクマがのけ反る。
そのまま反対方向に前脚を降ろすと、背中を向けて、森に走り出した。
すると、手前の木に激突。
クマはずりずりと、激突した木に額をこすりつけながら、その場にうずくまった。
クマは、動かなくなった。




