その四十一 雫、曲者に声をかける
「桜ちゃん、本当に大丈夫?」
「は、はい――」
雫に問いかけられると、少女は急いで頷く。
「何でも、御座いません――」
しかしそのいつも通り慇懃な口調も、今はどこか、精彩を欠いていた。顔色も悪く、落ち込んで、思い詰めたような表情をしていた。
雫はそんな桜の様子を、何も云わず眺めていた。
そうして、その夜。
雫は宿の脱衣所で念のため、周りに誰もいないことを確かめると、髪を解き着物を全て脱いで籠に入れ、息を吐いた。その吐息は、僅かに白くなる。どこからか吹き込んできた寒さに、雫はその凹凸の少ない細い躰を少し震わせた。そして思う。
(大分寒くなってきてるな……)
早くも冬の到来である。今日は終日あまり外に出ていないため、屋外の変化が如何様なものかまだ知らないが、そろそろ落葉も落ちきっているかも知れない。ややこしい話ではあるが、よく考えてみるとほんの数日の内に江戸の町の四季が楽しめるわけでもあり、そういう意味ではさほど悪いものでもなかった。
雫は湯殿に入ると、ゆっくりとその身を、湯船に浸けた。
この宿に泊まって今日で三夜目であるが、落着いて湯を楽しめるような気分でいるのは今宵が初めてであった。初日の夜は当然不安だらけであり、昨夜は姫の命で湯どころではなかった。
檜の香りが心を清める。
久方ぶりの安らぎを感じながら、しかし雫は思った。
(どうやったら、元の世界へ戻れるだろう……)
鴉は空振りであった。あの戦いに懸命になったのも、一つには鴉を倒すことで、絵巻の世界から抜け出すことが出来るのではないかと考えたからであった。ところが、そうはいかなかった。
そうなると、次はどうしたものだろうか。再び妖怪の元凶らしきものを見つけ出して、戦って倒さねばならぬのだろうか。それしかない、というのであれば無論やるが、根拠がどこにもない以上、何となく無為ではある。そも、どこにその元凶らしきものがあるのか、今や見当も付かなかった。
(じゃあ、妖怪が巣くっているっていう武家屋敷や江戸城へ、突撃してみるか?)
しかしそんなところへ行ったところで、現れる敵の大半は雑魚に決まっている。遊戯と違ってそんなもの、いくら倒したところで得られる物はなく、喜ぶ人もいない。それに、いくら雫が無双の強さを誇るとは云え、無益な戦いはなるべく避けたかった。
その「邪鬼の魅の凝る処」というのをを直截に叩くのが最もよい。だからこそ、鴉との戦いも熱を入れたのだ。それが外れと判った今――果たして何処に狙うべき悪、倒すべき敵がいるのだろうか。
湯に顔を半分浸け、ぶくぶく息を吹きながら、雫は思う。
(こんなのんびりした調子で、そんな奴見つけることが出来るかな)
何となく、自分から以前のような必死さが失われていることに、雫は気づいていた。今よりは昨日、昨日よりは一昨日の方が、帰らなければならないという切迫感で懸命になっていた。
ところがその感覚は、次第次第に薄れてきている。そんな急いで帰らなくても、とどこか思っている自分に気づく。
初日は、不安で一杯だった。訳も判らぬまま江戸時代に放り込まれてやくざ者に絡まれ、何時殺されるとも知れない心地を初めて味わった。何が何でも帰らなければ、と思うだけの理由があった。
それが――日を重ねるごとに、意味を失っていく。
楽しいのだ。この虚言に過ぎない絵巻の世界で過ごし、ものを考え、人と話している、まるで泡沫の如き時間が、何故か掛け替えもないほどに楽しい。そう気づいてしまったのだ。何故なのかは、よく判らないが。
否――違う。
理由など、雫も疾うに判っていた。
脈絡なく、雫の頭の中に颯太の笑顔が浮かぶ。
馬鹿が付くほど、無邪気な笑顔だった。
(あー……もう。くそー……これは……ダメだ)
雫は目の真下まで湯に浸かると、目を瞑って、そのぼんやりした想いを忘れようとした。
その時だった。
雫は、扉の外に何者かの気配を感じた。
息を無理に押し殺し、誰かが雫の様子を窺っている。
手練れのようではあるが、切羽詰まっているからか、堪えきれず洩れる吐息の音が聞こえる。
雫はあの、柱に突き立てられた棒手裏剣と文を思い出した。
(来た……か)
目を細めると、雫は湯船の中で身を起こした。無論丸裸で太刀など何も持っていないが、何とかなるだろうと踏んでいた。
ふ、と呼吸を整えると、雫はその曲者に声を掛けた。
「どうしたの? 入っておいでよ」
「……桜ちゃん」




