第九話 種——終末から355日目
暗い。
どこか遠くで、ひまりが泣いている。
「姉ちゃん。姉ちゃん、聞こえるか。」
まだ、群れのことを言っていない。
*
目を開けると、白いカーテンが見えた。レールの輪が一つだけ外れて、端が垂れ下がっている。
左腕に、細い管がテープで留めてあった。管をたどった先に、点滴の袋と、玄の手があった。
玄は、落ちるしずくの速さを、指先で調節している。
「起きたか。」
「……ひまりは。お義母さんは。」
「母さんと寝てる。史郎は、隣の部屋だ。」
玄は、私の額に手のひらを当てた。
「貧血だそうだ。それと、長いこと、まともに眠れていないって。」
私の頭の下の枕を、玄が少し直した。
今日は、4月1日。5月には、まだひと月ある。
廊下の向こうで、誰かが玄の名前を呼んでいる。
「行って。」
玄は、椅子から立たなかった。
「少しだけ。」
点滴の管の上から、私の手を握る。手のひらが、乾いていて温かい。
前の時、ここで1年近く一緒に暮らしたのに、二人とも、ほとんど口をきかなかった。二人目も、途中で諦めた。
「結婚した時、言ったよね。あなたは国を守る。私はあなたと、この家を守るって。……守ったよ。」
玄は、私の手を握ったまま、しばらく黙っていた。
「ありがとう。」
まぶたが、重くなっていく。カーテンの向こうで、誰かがワゴンを押していた。
「沙月。俺も、君に救われた。ありがとう。」
返事をしたのかどうか、覚えていない。
その日は、12時間眠った。夢は、一つも見なかった。
*
休息区には、1万人ほどが暮らしていた。
史郎は着いた次の日に、隊長たちと一緒に、ボランティアの受付に並んだらしい。
ひまりは、ヘリの音がするたびに、空を見上げた。
私は充電したスマホの電源を入れて、玄の前に差し出した。
「これを、見て。」
画面には、送れなかった二通が残っている。「必ず探しに来て」と、「ここで1年待つ」。
玄は、親指で画面を何度か動かした。
「演習中は、私物の携帯を預けていた。」
「うん。」
「……読んだのは、今が初めてだ。」
私は、玄の顔から目を離さなかった。
「来年の3月17日、この安全区域はゾンビの群れに呑まれる。」
玄の指が、画面の上で止まった。
「誰から聞いた。どこかの組織か。」
「組織なんてない。私は一度死んで、終末の日の朝に戻ってきた。」
玄は、何も言わない。
「この1年のどこかで、噛まれたと思って、自分を部屋に閉じこめた夜があったでしょう。朝になったら、ただの傷だった。」
「ひまりくらいの女の子を助けて、親のところまで連れていった。三人が抱き合うのを見て、あなたは一人で泣いた。」
「前の時、あなたが私に話してくれた。誰にも言ってないって。」
スマホを持つ玄の手が、膝の上に下りた。
お義母さんが、私の隣に座り直した。
「玄。沙月ちゃんは、こんな嘘をつく子じゃないよ。」
「群れが来る一週間前に、観測衛星が落ちる。宇宙のごみとぶつかって。」
玄は、スマホを私の手に戻した。
「疲れているんだ。」
声は、やわらかかった。
「信じなくてもいい。衛星が落ちた日、その日は離れないで。」
「分かった。」
*
365日目から、私は登記所の窓口に座るようになった。
窓口の脇のラジオから、生き残った人への呼びかけが、一日に何度も流れている。
その朝、列の三番目に、前の時、毎朝同じ配給の列に並んでいた眼鏡の男の人がいた。
「お名前を、お願いします。」
男の人は、私の顔を見ても、何も思い出さない。それで、よかった。
夕方、母から映像通話がかかってきた。
「半月目にね、お父さん、車を直してそっちへ行くって聞かなくて。村の若い人たちが、総出で止めてくれたのよ。」
「今は二人とも、こっちの安全区域にいるからね。」
画面の端に、父の顔が入ってきた。
「……玄くんに、礼を言っといてくれ。」
*
割り当てられた長屋の床下を、借りてきたスコップで掘った。
掘った穴に、保存のきく缶と水を並べていく。
夜、帰ってきた玄が、土の山の前で足を止めた。しゃがんで、湿った土をひとつかみ手に取り、また戻す。
「夕飯、まだか。」
「今、温める。」
10日ほどして、窓口の隣の席の人が、書類をそろえながら言った。
「工場の地下、避難所にするんだって。言いだしたの、自衛隊の結城さんらしいよ。」
「……そう。」
私は、次の人の名前を用紙に書き写した。
*
運河の縁で、隊長が防衛隊の人たちに指示を出していた。哲平は製油所で働きはじめた、と隊長は言った。
それから、隊長は帽子を取って、頭を下げる。
「あの時は、すまなかった。」
「着いたから、いいんです。」
私は、運河の水面を指さした。
「ここを、壁の外をぐるりと、もっと広げられませんか。水を張れば、足が鈍ります。」
隊長は、運河の向こう岸を目で測った。
「あなたは、どこまで広げたい。」
「壁の外、全部。」
翌朝には、隊長の班が、土嚢を積んだ一輪車を押していた。
*
後方支援の仕事を任されたのは、それからひと月後だった。
手の空いている人たちと、壁の下の草を抜いて回る。コンテナと土嚢の隙間から、蔓が細く伸びていた。
「結城さん、こんな端っこまで抜くの?」
「全部。壁の下が、上から見えるように。」
草の根は、思っていたより深かった。軍手の指先が、すぐに黒くなる。
夕方、壁の上に登った。
外には、刈り残しの枯れ草と、動くもののない道がどこまでも続いている。
来年の今日、この外に草が生えていますように。




