第十話 衛星——終末から410日目
410日目、5月26日。私は30歳になった。
お義母さんが、配給の小麦粉で麺を打ってくれた。史郎は、牛肉の缶詰を二つ持ってきて、テーブルに並べる。
「沙月ちゃん、伸びないうちに食べて。」
「職場の先輩と、ポイント交換したんだ。俺、交渉うまくなったと思わない?」
「どこで覚えたの。」
「卒論の先生を、半年説得してたからな。」
ひまりは、クレヨンの絵を両手で差し出した。四つの丸い顔が、同じ大きさで並んでいる。
玄が帰ってきたのは、夜遅くだった。テーブルに残った麺の器を見て、靴を脱ぎかけた手が止まる。
「……今日か。」
「今日。」
「悪い。埋め合わせる。」
玄が風呂場へ行ってから、お義母さんが小さく笑った。
「あの子は、昔からそうなのよ。大事な日ほど、帰ってくるのが遅いの。」
*
448日目、登記所の掲示板に、白い紙が二枚並んだ。
一枚は、ワクチンの研究がまだ続いているという知らせ。もう一枚は、出産の届け出の窓口の案内だった。
「赤ちゃんの届けも、ここでするのね。」
「私は、今は産まない。」
お義母さんは、それ以上は聞かなかった。
*
540日目、学校と保育園が開いた。
お義母さんは、ひまりと同じ保育園で、保育補助として働きはじめている。靴箱の名札が、一枚だけ角のめくれたまま貼ってあった。
「ひまり、先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ。おばあちゃんは、隣の部屋にいるからね。」
ひまりは新しい上履きを履いて、振り返らずに走っていった。
*
630日目、2度目の正月。
港の方で、花火が上がった。
まわりの人たちが、空に向かって手を合わせている。私も、合わせた。
その夜から、眠れなくなった。目を閉じると、首の後ろに、あの歯の感触が戻ってくる。
夜中に台所の椅子に座っていると、玄が湯呑みを置いた。
「湯、ここに置く。」
「……ありがとう。」
「眠れないなら、医者に診てもらえ。」
「心の病だから、薬じゃ治らない。」
3月17日が過ぎれば、治る。
玄は、私の向かいに座って、湯呑みが冷めるまで黙っていた。
*
698日目の夜中、枕元で玄の携帯が鳴った。
玄は、一度目の呼び出しで起き上がった。電話の向こうで、男の人の声が早口に何か言っている。
「……分かった。」
電話を切って、玄は暗がりの中でこちらを向いた。
「衛星が、落ちた。」
「うん。」
布団の中で、膝が勝手に震えはじめた。両手で押さえても、止まらない。
玄は、枕元の箱から煙草を一本抜いて、火を点けた。
口には、運ばない。指のあいだで、先だけが赤くなっていく。
「何時だ。」
「10時。前の時は、あなたたちが出発した1時間後だった。」
「どこから。」
「四方から。」
煙が一筋、天井へのぼっていく。玄は灰皿に煙草を押しつけて、揉み消した。
「寝てろ。司令部に行ってくる。」
上着を羽織る音と、玄関の戸の閉まる音。
灰皿の中で、潰れた煙草から、細い煙がまだ上がっている。それが消えるまで、私は見ていた。
*
玄は、5日間帰ってこなかった。
次の朝、偵察機が何機も、壁の外へ飛んでいった。昼過ぎには、戦闘機の音が空を裂く。
それから3日、戦闘機は飛び立っては戻り、また飛び立った。遠くで、腹に響く音が途切れずに続いている。
壁の上を、防衛隊の人たちが土嚢を担いで行き来している。
703日目の朝、登記所に通知が貼られた。
女性と子ども、年寄りは、17日の朝までに工場の地下のシェルターへ。
その夜、玄が帰ってきた。
「どれくらい、来るの。」
「多くない。」
玄はそれだけ言って、ひまりの頭に手を置いた。
お義母さんが、通知の紙を折りたたんで、エプロンのポケットに入れた。
「地下には、何を持っていけばいいのかしら。」
「水と毛布。それから、ひまりの絵本。」
*
夕飯のあと、ひまりが絵本を抱えて、玄の膝によじ登った。
玄は、一冊目を読み終えると、二冊目を開いた。それが終わると、また一冊目に戻る。
玄の声は低く、ページをめくる指が、一枚ごとに少しだけ止まった。
ひまりのまぶたが下がりかけると、玄は手を止めて、顔をのぞきこんだ。
「続き、読むか。」
ひまりは、目を閉じたままうなずいた。
柱の時計の長い針が、ちょうど一周する。
ひまりの寝息を確かめてから、玄は娘を布団へ運んだ。開いたままの絵本を、私が閉じた。
*
史郎が、紙袋をいくつも提げてやってきた。
「缶詰と、乾パン。地下に持ってって。」
「史郎は、今夜は?」
「工場に戻る。運ぶ箱が、まだ残ってるんだ。」
史郎は、部屋の奥をのぞいた。
「義兄さんは?」
「まだ、いる。」
「……そっか。」
袋を玄関に置くと、史郎は靴も脱がずに戸口を出た。数歩行って、振り返る。
「赤い袋、姉ちゃんの好きなココナッツの飴だから。配給ポイント、ずっとためてたんだ。」
「分かった。気をつけて。」
史郎は、片手を挙げて、暗い路地へ曲がっていった。
赤い袋を、地下へ持っていく鞄の一番上に入れた。
*
玄が出ていく時間になった。
玄関で靴を履いてから、玄は一度だけ、ひまりの寝ている部屋の方を見た。
「ひまりには、何て言えばいい。」
「仕事だと言え。……本当のことだ。」
戸口の外は、月が明るい。地面に、二人分の影がくっきり落ちていた。
玄が、私を抱き寄せた。腕の力が、いつもより強い。
「沙月に会えて、俺は幸運だった。ありがとう。」
二人とも、別れを言っている。
梅雨が来ず、雪が2か月早かった年。今度の群れは、前の時より大きいのかもしれない。
私は、欲張りすぎた。
玄の上着の胸を、両手でつかんだ。
「私、二度の人生をかけて、あなたのところまで来たんだよ。必ず帰ってきて。」
玄は、唇を少し動かした。何も言わない。
できない約束を、口にしない人。
玄は私の頬を両手で包んで、唇を重ねた。それから背を向けて、月明かりの道を歩いていった。
703日目の夜が、更けていく。
あと2日。
3月17日、午前10時。




